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遊郭編最終話はつまんなかった…

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結月です。

今日は鬼滅の遊郭編が最終話だというので、5歳の愛娘と楽しみにしていた。45分の拡大版、そして前回が壮絶な戦いだったから期待をしていたんだけれど… でも、

「つまんなかったッス…」

と、5歳児と顔を見合わせ、

「おもしろくなかったね…」

だってさー 鬼の過去なんてあんなに尺いる? 説明的すぎるのが鬼滅で、その特性が存分に出てしまって、説明がくどすぎる。あそこまでくどく説明しなくてもわかるよ。45分の拡大版って、ほとんどが鬼の過去の説明じゃん… あの内容だと20分くらいで事足りるよ。

でも、今は説明してあげないとわからない時代なんだよね。とにかく事細かに説明しないと理解してもらえないって思う時代なんだよね。

それは頭で考える時代だから、Google先生的な時代だから。感性で捉えたらあんなにクドクドした説明はいらない。

だから、説明的でない戦闘シーンの作画はエキサイトするのだけれど、説明的なシーンとなると絵は大したことなくなるだよね、鬼滅は。

『無限列車編』でも夢のシーンがくどくて、絵がつまんなくなる。

ともかく、鬼の過去は現代の虐待とか、それによる人間の育ち方とかわかりやすいことを言ってるわけで、脚本的には驚きはない。

禰豆子が鬼気術で解毒してしまうところは、

「ドラゴンボールかよ!」

と、思ってしまい、確かナメック星人のデンデとかいうガキが傷を治しちゃうんだよね。まあ、アニメ的にはそういうキャラがいないと登場人物が死んじゃって次の話に進まないわけだけど、ちょっと反則かなとは思う。

「あんな術が使えるなら、禰豆子はずっと鬼のままのほうがいいんじゃね?」

と思いつつ、禰豆子の着物が肌蹴て、その太腿が見えるところは少年誌だなと思った。

でもまあ、全体的には遊郭編は楽しませてもらって、次の刀鍛冶の里編もアニメ化されるとのことで楽しみにしてるよ。

しかし、鬼滅の漫画原作を電子本で本でみたけど、漫画のほうっておもしろくないね。アニメのほうが出来過ぎていておもしろい。原作漫画ってまず絵が下手くそで、アニメから入ったわたしはアニメの出来の良さに慣れてしまっていて、原作がお粗末に見えてしまった。

ということで、2巻までは読んだけど、その先を購入する気が起こらずそのまま。

ちなみに2巻までは2度読んでみたが、やっぱりおもしろくなくて3巻目に行く気がしないのは同じだった。

でも、鬼の過去で「ごめん、ごめん」というセリフは妹からも聞かれたが、ああやって自分が悪くないのに謝るっていうのは日本の教育なんだろう。なんか日本って、とりあえず謝るっていうことが浸透していて、それが過激になって謝るほうが優しくていい人間という評価になっている気がする。

自虐的なのが今の日本で、自虐的な偽善にも思える。

他人に迷惑をかけないっていう価値観が行き過ぎているのであって、他人に迷惑を結構かけて生きているわたしからすると、迷惑でもないことを自分で自分のせいだと思い込んで生きていくのは辛かろうと思う。

と、わたしは自認しているだけの他人への迷惑があるから迷惑かけてんだろうなと思いつつ、さらに迷惑だと思っていない鈍感さのゆえに、きっとわたしが他人にかけている迷惑の総量はオミクロン並だと思う。

でも、迷惑をかけていると自認していない部分については判別できないから、おめでたいことにわたし自身はなんとも思っておらず、

「ごめん」

なんて言わない。

と同時に、他人の迷惑にもわりかし耐性があるというか、大目に考えるところが自分にはあると自惚れていて、他人がわたしに対して「ごめん」と思っていることも当のわたしはそれほど気にしていないとか忘れてしまっている。

だから、一方的に自虐的になってわたしに迷惑かけたとか思って疎遠になるのはもったいないと思うのである。

まあ、そのあたりは中国人なんか見ているとおおらかなもので、大喧嘩して絶交しているくせにそのうち電話がかかってきて、あの大喧嘩は一体何?と日本人のわたしが思うほどケロッとしている。

人間関係なんてそれくらいがいいと思うわけで、日本人はちょっと自虐的に考え過ぎなんだと思うよ。

だから、鬼滅の刃を中国とか、フランスとか、アメリカで劇場公開したら、ものすごく不思議なやり取りをしているように思われるに違いない。

「なんでそこで謝るの?」

と、異国の人たちはクエスチョンであろう。

ともかく、謝らなくていいことにも謝るのが美徳っぽくなっている日本はキモい。

そう言えば、わたしはあまり謝らない人間だ。それは昔、フランスに行った頃、闇雲に謝らないほうがいいと教えられたからで、日本人の「とりあえず謝る」という精神性はわたしからはなくなった。

あとは人間は生きている以上、迷惑をかけて生きるもので、逆に迷惑ゼロで生きることは不可能。生きていると他者関係が生まれるから、必ず迷惑は発生する。

それが悪質な意図的なものは困るけれど、自然発生する迷惑は仕方がないのである。

だから、自分がかけた迷惑も、

「アタシ、人間だしね」

と、割り切っているし、誰かの迷惑も、

「まっ、人間だしね」

と、割り切る。

なので、謝らないわたしは謝られてもあまりいい気持ちはしないし、謝られたところで迷惑をかけて生きるのが人間だという根本が人間である以上変わるわけはないから、

「何、謝ってんの?」

としか思わない。

とは言え、世間はそうでなく、他人の迷惑には潔癖なところがあるから、企業のお偉い人たちが揃って、

「申し訳ございませんでした…」

と、頭を下げているのは気の毒だと思う。あれをやらないと今は世間はうるさいのである。だから謝ったほうが早い。

自分のミスを認めるという行為と謝るという行為は似ているようで違う。

自分のミスを認めるのは、そのプロセスに欠陥があったことをプライドなく合理的に認識し、それを元に次のプロセスで事態が悪くならないようにする行為。だから、闇雲に謝るのではなく、自分の現状を客観的に認識することが大事なのである。

これができないと同じようなミスばかり繰り返し、

「もうええ加減にせえよ!」

と、信用を失ってしまう。

自分のミスは認めるのは恥ずかしいことではなく、なぜならそれは人間は不完全なものでミスをしない人間はいないから。どうも日本は他人のミスに対して寛容さがない。

だから、わたしは言いたいね。炭治郎みたいにすぐに謝る奴に。

“Nobody is perfect !”

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