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カーリング女子を見て思ったこと

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結月でございます。

先日、オリンピックの女子カーリングを見ていると、ロシアチームの四人のうち三人が美人という美人率の高さに美人が好き耽美主義なわたしは、

「ごめん。アタシ、ロシアを応援するわ」

と、日本チームでなくロシア側についた。

そう思っていると、メガネ先輩としてロシアチームのメガネ美人が話題になったようである。ロシアは広い国とはいえ美人が多いようで、ヨーロッパの白人系とアジアの黄色人種系の両方の雰囲気があるという混血的な地理条件が美人が生まれる秘訣だと思う。

ちなみにわたしがいる栃木県は美人が一人もいない。こちらに来て3年になるが、いまだに美人を見たことがなく、正直に申し上げて美貌的には普通以下なのが栃木の特徴なのである。

さすがに3年もいると栃木の顔がわかってくるもので、目尻が細くてやや吊り目か逆にやや垂れ目が特徴で、美人に見える条件が大きな目であることを考えると栃木の顔は美形にはならない。

土地それぞれにはおもしろいように顔の特徴があり、これは社会学というか人類学の一種にもなる気がするが、それはその土地のルーツを探ることにもなり、調べてみるとおもしろい。

あとは水が近いところは美人が生まれやすいという伝説もあって、あながち嘘でもなさそうであり、きっと何かしらの理由があるのだろう。

あとはオデコが大事で、オデコが広くて艶があるのが美人の条件でもあり、だから前髪を作ってオデコを隠すと美人には見えない。

人相学的には狭いオデコは現実思考で、広いオデコは理想思考、もっと言えば形而下と形而上であるが、美人というのは美という形而上を備えるのであるからオデコが狭いと美人にはならない。

と、昨今はなんちゃってフェミニズムの影響か、美人のことを美人と言えない風潮があるが、そういう耽美の否定はオデコが狭い発想であり、美は美として存在するのだからそれを認めないのはヒューマニズムというより僻みである。

それでもロシアのメガネ美人が話題になるところを見ると、美人が注目される人間的本能がちゃんと社会で働いていることが認められて、美人を否定することなんてできやしない。

美というイデアはあらゆるところに散在していて、音楽だって美しい音色が求められるし、デパートのお菓子売り場でカステラを買ったってその包装紙には美的なデザインが施されている。

工業製品にだってそこには美的な形状を考えないと売上は立たないし、パンツやブラだって美的なデザインが考えられている。

だから、人間にだって美的な顔を求めるのは自然な姿であり、それを美人を称賛するとルッキズムなどと言われるようではつまらない。感性的な人間でない、つまり感性に鈍感な種類の人たちが美を感じることができないから、美を愛することの邪魔をする。

とまあ、美人というのは先天的なものであり、それはスポーツにおける肉体的な「恵まれ」と同じであろう。

スポーツは生まれもっての肉体的な天性があり、兄弟でもまるで成績が異なるのはその天性の差であるとも考えられる。

その天性を伸ばせば伸ばすほど才能は開花する。美人だってもともと美形に生まれて、その美をさらに伸ばすメイクであったり、ファッションセンスであったり、立ち居振る舞いを身につければますます美人になる。

ともかく、スポーツの世界がオリンピックという舞台で生まれもっての肉体的天性に恵まれた人たちが頂点を目指すことが許されているのであれば、美人のことはもっと称賛していい。

さて、そんなロシア美人が集まるカーリングを見て、これってスポーツなのだろうか?とちょっと思った。

確かにあのデッキブラシみたいなもので必死に氷面を擦るのはさぞかし腕が疲れるだろうと察する。しかし、その他の動きは氷の上を滑ったり、丸い石を滑らせたりするが、どう見ても力技には見えず、体力的にそんなにハードなものなのだろうかと運動能力が恵まれていないわたしは思うのである。

もしかして清掃会社から派遣されている掃除のおばさんやおっさんのほうがブラシをゴシゴシやっている仕事量では上なのではないかと邪推する。

とはいえ、カーリング女子はもぐもぐタイムでお菓子をつまんでいるし、やはり間食したくなるくらいには腹が減るのだろうか。

また、氷の上の競技なのに半袖の選手もいるし、あのブラシでゴシゴシは見た目よりも体力を使うということか?

何度見てもルールがよくわからないカーリングでありながら、なんとなく眺めてしまう。見ていてエキサイトがなく、ダラっと眺めるのがカーリングなのかもしれない。

やっていることはビリヤードみたいなことかなと思いつつ、あれがチームで分担ということか。

しかし、甲高い声を上げながらそれぞれでコミュニケーションを取る姿は動物的で、猿山のようだと思った。

猿山の猿たちは奇声を上げることで自分たちの位置を確認したりしていると『ケータイを持ったサル』という本で読んだ記憶がある。

特に女子となるとあのやり取りが、

「ああ、オンナだな」

と、女の本性的なものを感じるわたしで、ガチレズなわたしはそんな女子会的ムードに悪い気はしない。でも、天皇は男でなければならん!と考えるようなタイプの人にはきっとカーリング女子は見ていられるようなものでないだろう。あの女的喧しさに耐えきれず、

「女系天皇なんてとんでもない!」

となる。得てして、オンナを嫌う昭和的極右の感性はそんな感じで、だから女系を認めない主張に論理性がない。

とまあ、カーリング女子の言葉のやり取りであるけれど、言葉以前の信号のようなものを感じるわたしは『ケータイを持ったサル』という本を思い出してしまったのだけれど、この本を書いた京都大学の正高教授は論文の捏造がバレてクビになったようで、せっかく金出して本を買ったわたしは複雑な気持ちであり、自分の頭に取り入れたもののどこまではホントかウソかが判別できなくてちょっと困っている。

しかし、世の中はホントかウソかわからないものばかりで、もちろんわたしがつらつらとここに書いていることもいい加減極まりないから信じるに値しない。

と、そんなことを思いつつ、カーリングの男子なるものは見たことがない。女子があるのだから男子もあるのだろうか?

きっと男子はおもしろくないに違いないのは、女子会的信号が飛び交うのがないだろう男子は眺めても退屈であろうと予想する。

しかし、体力的に凄まじくハードでなさそうなカーリングを男子と女子という肉体的差異で分ける必要があるのだろうか?

氷の上で石を滑らせるなんてそこまで筋肉がいるとも思えず、サッカーや野球のように女は肉体的に男には勝てないという理屈が成り立つのか不思議に思った。

ただ、氷上でのコミュニケーションが女子会的信号でやられると男はきっと理解できないに違いない。左脳で捉えると、

「言ってること、意味わかんないんだけど…」

と、男は困惑しそうである。

さて、先ほど「ケータイを持ったサル」を持ち出したが、カーリング女子のそれはどちらかと言うと小鳥のやり取りのようである。

小鳥たちは木の上でうるさいくらいに囀っているけれど、あれは何をやり取りしているのだろうか?

しかし、鳥というのは祖先が恐竜であり、つまり恐竜が進化したものが鳥なのである。だから鳥はああ見えて凶暴なところがあり、嘴で激しく突かれると大怪我をする。

そんな激しさをカーリング女子の叫び声に感じてしまい、ガチレズで女子会派のわたしでさえ、

「うるさいな、ほんまに。もうちょっと静かにでけんのか」

と、思うことがある。

でも、オリンピックのおもしろいところは同じ女子でも国が違えばまるで雰囲気が異なるところで、ニッポンというのは「カワイイ」ものだ。

ロシア美人チームは顔立ちからも理性的に見えるし、デンマークもそうだった。韓国チームはなんか怖そうである。

そう言えば、昔、韓国人のディレクターを映画の脚本を書いていたとき、彼はしきりに、

「日本の女性を結婚したい。韓国女性だけは嫌」

と、言っていた。

日本女性は可愛らしいけれど、韓国女性はキツすぎるのだと言う。

なんとなくわかるような話ではあったが、日本人の女が可愛く見えるのはよくわかる。

バリバリ自己主張をすることなく、周囲を見ながら「どうする?」を言い合いながら物事を決めていく日本的意思決定は可愛く見える。

物事を単独で決めたがらないのは日本女子だけでなく男も同様であるから、曖昧な国なわけである。

単独決定しない「はにかみ」が自己主張激しい国から見ると可愛く、そして神秘的に見える。

カーリング女子日本チームもその傾向があり、お国柄が出ている。

もぐもぐタイムの風景は、いかにも日本の女たちだった。

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