結月です。
お刺身を食べていると猫がやってきて、口移しでちょっと分けてやると、
「痛っ!」
と、猫の歯が唇に当たって少しばかり痛いことがあるけれど、これも上手にやる。
しかしまあ、猫というのは可愛くて仕方がない。
と、スタニスワフ・レムの長編『星からの帰還』を読み終え、次はレムのどの作品を読もうかこれから考える。
そう言えば、先日『鬼滅の刃』をテレビで見て、禰󠄀豆子が炭治郎に、
「どうしてお兄ちゃんは謝ってばかりなの!」
と説教するシーンを見て、
「うん!よくぞ言ってくれた!」
と、少しばかりすっきりしたわたし。
炭治郎は不利な形勢になると「ごめん…」と謝ってばかりで、
「お前さー、ホント言うと、自分が偉いと思ってんだろ、あぁ〜? 偉いと思ってるから弱いくせにできもしねーことができなかったからって自虐的になって自分の無能さを隠してるんだろ? お前さ、偽善的なんだよ。謝ることで自分ができなかったことを言い訳しながら、ホントはもっと自分はできる人間だと自惚れてんだろ、あぁ〜? お前さ、自意識過剰なんだよ。実力でなく、媚びて出世するタイプの典型だわ。善逸にも謝ってるけどよー、そもそも善逸のほうがお前より強えーってんだよ」
と、わたしは炭治郎にビシッと言ってやりたい。
まあでもさ。ああいうのって今のトレンドだよ。いい人そうを全面アピールっていうのは。人のこと心配してるとか、弱い奴に手を貸そうとか、そうやって自分より低い奴を見つけて、いい人ぶって実は自分のアゲアゲっていうね。気持ち悪い世の中だよ。
とまあ、そんな胡散臭さは誰だってわかっちゃいても、
「あんた、嘘つきでしょ」
と、ストレートに言えない雰囲気があって、逆にその胡散臭さに同調するっていうのもトレンド。
さて、田舎暮らしでクルマ生活になったせいで足腰が軟弱になりすぎてヤバかったわたしは購入したエアロバイクを毎日乗っている。今日もしっかりと30分を2セットこなした。
エアロバイクを始めてから2週間ほどか定かではないが、その効果はしっかりと出ていて、地べたに座って5歳の愛娘と遊んでいてもスッと立ち上がれるようになった。
そんなこと当たり前と思われることかもしれないが、弱体化していたわたしの下半身は立ち上がることにも苦労していて、
「そりゃ!」
と、気合を入れると、よろめきながらそばにあるソファにしがみついて立ち上がっていたのである。
それはある日見てしまったテレビショッピングの怪しすぎる健康食品の宣伝と同じ光景で、つまり老人が足腰が弱くなって立ち上がれなくなった寸劇のままであった。
健康食品の効果はかなり怪しげで効果はないに違いないが、年寄りが、
「立つのも一苦労で…」
という寸劇は本当なのである。
老人でもないのにすっかり同じようになってしまっていて、そのヤバさにエアロバイクを買ったわけだが、トレーニング効果もすぐに出て、筋肉が復調し、立ち上がることに苦労はなくなった。
しかし、先日、駒込駅の東口から南北線の方へ行くための急な坂道を歩くと胸が痛くなって息切れしてしまい、心肺能力のほうはまだまだである。わたしはもともとそこは軟弱であるから息切れしないことはないにせよ、エアロバイク効果を期待した分、ちょっとがっかりした。
5月には結美堂山ガール部で山登りに行きたいというのに、駒込の坂でこの有様では情けない。
と、明日は雪らしく、すると奥日光はまたせ盛大な雪景色ということで、5歳児を連れて雪遊びをしに行こうと思っている。
大雪の中、キャンピングカー仕様にした軽自動車で山奥でひとり車中泊するというYouTubeを見ていて、こういうの、わたしもやってみたいんだよね。
再生回数がよく伸びているから、これをやりたい人はわたしだけでなく、それは時代のニーズなのだと思う。ソロキャンプと同様に。
雪の奥日光でひとり車中泊して、車の中でカップ麺を食べたり、雪で冷やしたハイボールを飲んだり、寝袋にくるまって寝るのは楽しそうなのである。
もし愛娘がいなければやっていたに違いなく、しかし、毎日面倒を見なければならないからそれは叶わない。
ともかく、そんなYouTubeを見ながらエアロバイクをながら漕ぎしてみたら、1セット30分が恐ろしく長いものに感じられた。雪の中の車中泊は内容のテンポが遅いから、時間の感覚も遅く感じる。するとエアロバイクを漕ぐのが億劫になってしまい、なるほど時間感覚というのは同じ30分でもこうも違うものかと感じた。
肉体的なトレーニングはキツいものだから、テンポの速い動画がよく、だから中川家のコントなどがいい。笑っている間にいつしか30分が過ぎていて、すると肉体疲労も不思議と感じず、30分以上だってできる気になる。
言ってみれば、話が超絶おもしろくない学校の先生の授業と同じ内容でもトークが楽しい予備校の先生の授業の違いみたいなもので、やはり楽しさというのは大事なものなのだ。
車中泊動画などは寝る前に見るとか、ゆったりとするときがよろしく、運動には向かない。
パチンコ屋では軍艦マーチがよく、もしパチンコ屋のBGMがマーラーの5番のアダージェットや能楽だったらやる気がしない。
とまあ、これからスタニスワフ・レムの『砂漠の惑星』を読みはじめようと思う。
レムの長編はなんだか哲学的にダラダラ長いのだけれど、こういう文章を読むのは根気がいることで、長編小説を比較的若い頃に読んでいないと読めるようにはならない。
普通はこんな長編を10代で読む習慣はないから、要するに売れる本といえば行間スカスカの自己啓発本だったりするのは理解できる。
長編を読む根気を形成されていない人に向かって、
「ドストエフスキーを読め」
なんていうのは無理な話で、それは1曲3分程度の歌しか聞いたことがない人に、
「クラシック音楽を聴け」
というのが無理なのと同様で、すなわちクラシック音楽をやっている人は、
「音楽っていうものが人間にとって不可欠なものなんだと思います」
なんて言いたがるけど、いかにそれが場違いであるかがわかる。
実はこの世はそんなに根気のある人ばかりでできておらず、Twitterの文字数を書くことも読んで理解することができない人たちはたくさんいるのが現実であり、そこにニーズは集中するのである。
と言いながら、レムの小説なんて別に読まなくていいよとわたしは思うのであり、レムを読んだところで偉くなるわけでもなし、何かお得なことがあるわけでもない。
とどのつまりは本なんて読みたいから読むのであって、音楽なんて聴きたいから聴くのである。故に人には強要はできない。すなわち、読書や音楽がすばらしいと思うのは自分の世界の中だけであって、外部には通用するものでないニッチなのである。
意外と自分がニッチであることに気づかず、ニッチなくせに普遍的な意味を見出そうとする人がどのジャンルにも多いわけで、わたしは肉体が軟弱なくせに少しだけ山登りを始めたが、
「一度はエベレストに登るべきだよ」
なんて言われても困るし、
「富士山って、マストだよね」
というのも困る。
いやいや、そんな体力ねーし。そこまで登れたらすごい風景が見られるのだろうけれど、それを差し引いても自分の体がボロボロになるダメージのほうが大きく、ご勘弁願いたい。
実は普遍的な価値を持つものなんてこの世にはないんじゃないかと思い始めているわたしはポストモダンなわけで、もし普遍に近いものがあるとするならば、それはモーツァルトの美しい旋律ではなく、
「コカコーラ」
「Windows」
あたりでないかと思うのである。