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どうしてかを考える

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結月です。

なんでそうなるか。

それを考えることって大事なことだと今更ながらに思うのは、結構世の中ってよく考えてみれば根拠がないものだったり、古臭くなって今では通用しないものを惰性で今でも使ったり信じたりしたりしていることが多いから。

あらゆる現象には原因があって、つまりは「どうして」なる起源がある。

ところがその起源から離れていったり、時間がたくさん経ってしまうと起源とは関係のないものになってしまっている。

だから、現象に対して「なんでそうなるか?」や「どうしてそうなっているのか?」を考えることは重要なのである。

なんで毎日会社に行っているのか?

という問いかけをしてみると、意外とちゃんとした理由を答えられない人は多いかもしれない。自分で理由を答えられないのに毎日同じ時間の電車に乗って通勤する。

「どうしてか?」を考えることは決して疑うことではない。疑念から思うのではなく、それは好奇心であるべきだ。

疑念で考えるとデバイスがかかってしまうからで、好奇心のほうが余計な思い込みがないからいい。

さて、どうしてそうなっているかを考えてみて、どうでもいいことを信じていてしまっていたり、今まで理不尽な境遇にあったと知ってしまう。するとちょっとした苦悩やいたたまれなさが込み上げてくる。そうなると意味のないことをやっていたことへの後悔も生まれ、そしてこう言いたくなる気分になる。

「騙された!」

騙されたと思うと腹が立つ。それを是正しないと気が済まないし、でもそれをするには勇気がいる。

自分一人の問題ならいいが、それが会社だったり、組織だったり、つまりは社会が相手となるとグッと堪えて根拠のないことを続けるほうが是正するより楽だとも思う。

これは「大人の対応」と評価される。

だから、どうしてなのか?という問いかけをしないほうがいい、つまり知らぬままのほうがいいという見方もできるわけだが、それでいいのかよ、自分?と思ったりもする。

どうしてなのかと思い始め、探究を始めると知らないことが解明されてきて、つまり知識が増える。探究心とは楽しいものであり、それがあると退屈しない。

だから、毎日生きててつまらないだとか、会社に行くだけの日々なんて元気のない人は「どうしてそうなるのか?」という探究心がきっと少ないに違いなく、探究心を持てばよろしい。

と、簡単に言うが、これは才能みたいなもので、持てと言われて持てるようなものでなく、まずもって持続しない。

これは自己啓発本のような話であって、できる人に言われてもできない。いつまでもできない。だから本は売れる。言われてできるものならそれで完結するから本は売れない。

ところでわたしはまもなく5歳になる4歳児から毎日、

「なんで〜?」

という質問攻めにあっていて、それなりに一生懸命答えている。

小さな子供の問いかけは根源的な内容だったりするから答えるのも難しく、しかも科学的な正解を言ったところでそれを理解するまでの知識はないからなかなか大変なのである。

だが、4歳児が質問攻めをするのは、まだ生まれて4年しか経っていないからこの世が不思議なことばかりだから。毎晩、お月様の形が変わるのも不思議でたまらない。

探究心のない大人が一般的であるのは、ある程度の知識が身につくと世の中を不思議と思わなくなるからで、さらにルールや慣習が染み込むと「どうして?」を考えることを忘れてしまう。

しかし、この世は不思議がいっぱいで、わからないことがいっぱいなのである。

そう言えば、わたしは科学雑誌のNewton別冊を買ってしまった。その特集は「無とは何か?」。

無という概念は非常に難しく、哲学的にも解釈しきれないし、科学的にも何をもって無というのかはよくわからない。

宇宙的には無からビッグバンが始まって宇宙という有限なるものが広がっているが、そもそもどうして無から有が生み出されるのかよくわからない。

と、そんなわけでNewton別冊を買ったわけだが、きっとそれを読んでもよくわからないことだろう。

しかし、無について考えることは実に楽しく、夜も眠れぬほどとまでは言わないが、寝落ちするまで考えてしまう。

というわけで、無ひとつとっても探究心の対象となり得る。いくら知識を積み上げてもわからないものはたくさんある。

美とは何故にあるのかもよくわからない。

わたしには美的に理想的な着物美人の姿があって、それは誰それという具体的なものでないのだけれど、美的なイメージとして形而上学的に頭の中にある。

それは大変美しい女の姿であれど、どうしてそれを美しいと感じるのだろう?

そして、そこに少しでも近づくような着物美人とこの世に創り上げられたらと思う。

モーツァルトのジュピターはなぜあんなに美しいのだろう? いや、美しいというより、地上の音でない気がする。自分なりにはあれは想念界の神界まではいかない天界くらいの層にある風景を音にするとジュピターになるとは思っている。

しかし、天界は肉体があると行けない想念界だし、それを感じるにはやっぱり形而上になってしまうのだが、もうなんだかよくわからなくなってくる。

何度もジュピターは聴いていてもやっぱりわからない。

とまあ、わからないことはたくさんあって、世の中を不思議と思わなくなるわけがない。不仕事思わないのはきっと自分の視野が狭いだけとか、わかった気になっているだけなのだろう?

そう言えば、うちの猫たちがわたしの顔をどのように見ているのかも興味深い。わたしは猫からどのように見えて、どのように思われているのだろう?

4歳児からも同様で、どのように見られているのか?

そんなことを考えると、サルトルのことを思い出して、見られることの地獄とはこのことかと思ったり、ヴィトゲンシュタインを考えたりする。

ともかく「どうしてか?」と考えると止まらなくなるわけで、止め処がない。

知らぬほうが美しいという秘すれば花もあるが、それはせいぜい人間関係の心においてで、世界は不思議だらけでいくら掘り起こしても枯渇することがないほど不思議がある。

おそらくそれを全て知っているのは、

神。

宇宙があること自体、神の「意志」がないと説明がつかない。創造するにはまず何を作るかという意志が不可欠で、意志のないところに存在は生まれないのだから。

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