結月でございます。
今年になっていきなり取り組み始めた新プロジェクト。着々と進んでいて、
「ああ、楽しみ!」
なのである。
構想期間ほぼゼロ。コペルニクス的転回でパッと閃いた真逆の発想。なので、構想して地道に築き上げたものじゃない。
とは言え、そのコペルニクス的転回が起こるまでは1ヶ月ほどあって、約1ヶ月間、単純にやろうと思っていたことがことごとくうまくいかず、そのことが些か惨めな気持ちにもなって、
「そうか、このやり方は本来のアタシのやり方じゃなかったわ」
と、わたし自身の原点は足元に落ちていて、ドグマというか、思い込みを瞬間で捨てたら自分の原点に気付いてすぐに閃いた。
詳細の内容については現実的な交渉の中で変更しなければならなかったが、その変更も悪いものではなく、むしろ自分の発想とは異なるものであったから自分にとっては新鮮なものになった。
わたしはこだわり度を概ね60%に設定している。まったくこだわらないのも中身がないし、こだわりすぎると融通が利かなくなる。
それに現実の中でやりくりしなければならないから、こだわっても駄目なものは駄目ってことは普通にある。だから、どうしても駄目なものにはこだわらず、サッと諦める。
ただし、どうしても駄目だという結論が出せるまでは徹底的にやる。それだけやって駄目なら仕方がないのだからそこは執着せず、他を考える。
だから、こだわり度を60%にしておくのであり、現実が厳しすぎてこだわり度が60%を切ると、
「それならやらない」
と、やめる。もしくはまったく別のものをゼロから考え直す。
こだわり度60%以下は、つまり「それ、つまんないよね」というフィーリングが漂い出すからで、その程度のものには一生懸命になれないからやめたほうがいい。
これは人から頼まれてやる仕事ではなく、自分発であるから、自分がつまんないと思うなら無理してやってもどうせおもしろくないし、成功しやしない。
必死にやっても成功しないことのほうが多いわけだが、自分が納得してやっているものは失敗しても自分に許せる。次またやってみればいいと思える。ところが自分がつまらないと感じているのに無理にやって失敗したら後悔は大きいし、自分がアホでしかなかったという結論しかない。
それゆえにわたしは継続した仕事ができないのである。仕事は継続させると、継続させることが目的になってしまうから、必ずそれはつまらなくなる。連続ドラマよりも一本の壮大な映画のほうがいい。
というわけで、今取り組んでいるプロジェクトは楽しみで仕方がないのであるが、現実がスタートするとこれが苦しくて、憂鬱で、苛つきながら打ちのめされ、ため息ばかりつくようになる。
物事は思い通りにはいかないことを知っているからで、なぜそれがわかっているのにやってしまうのかというと、
「そこに山があるからだ」
と、登山家にどうして過酷な山に登るのだと尋ねた答えと同じである。
わたしは今、登山も決め、そこに必要な装備品を集めている最中である。まだ登り始めてはいない。だから苦しくはない。
しかし、あと1ヶ月後くらいには登り始めているだろう。
山登りの苦しさのような日々が始まる。
さらに今回のプロジェクトはさらに来年、再来年へとつなげたいもので、中長期的な戦略も考えていかなければならない。
とは言え、それはやってみなければならないから今から決められるものじゃない。
日本はなんでもかんでも事前に準備を100%にしないと始められないと考える風潮があるが、これは大間違いで「やりながら考える」のがいい。
なぜから、いくら事前に完璧な準備をしようともいざ始めてみると想定とは異なった現実にぶち当たるから。
山登りで言えば、予め決めていた登山ルートに行ってみると倒木で前に進めなかったりでルート変更を余儀なくされるようなものだろうか。
だから、無計画はよくないけれど、大雑把な骨子を決めたらとりあえずは始めてみる。そしてやりながら対処し、考えていく。すると現実にも対処できるし、それを元に思いもよらぬアイデアが出てきたるする。
というわけで、新プロジェクトは年内に関しては概ね決まっているが、その先については漠然としたイメージはありつつも、動かしてみないとわからない。
だから、どうなっても動けるようにこだわり度は60%。
まあしかし、やっていて楽しい。これは間違いない。人は楽しいものにこそ、実力を発揮できるもので、楽しくない嫌々なんかじゃ、そこそこのことしかできやしない。
あとは金のことはものすごく考えているけれど、目的を金にはしない。第一の目的を金にしてしまうと内容が悪くなる。
第一の目的はやりたいことの内容であり、それをきっちりと戦略的にできてから結果的に金のことがしっかりできているのがいい。
一番駄目なのはボランティア精神で、奉仕活動なんかで人を食わせることはできない。ボランティアを尊いものとして設定して、人をただ働きさせるのは詐欺よりひどい。
しかし、日本の文化的なジャンルでは、そういうやり方が蔓延っていて、文化に携わる仕事では金のことは言うななんて平気で言われる。
わたしが最も嫌なのは、音楽大学を出た若年の演奏者にちっぽけなギャラで市民センターみたいなところで数少ない老人を相手に演奏をするようなコンサートで、こんなことを若い奏者にやらせちゃいけない。
音楽大学は大変金がかかるし、そもそもプロ奏者になるにはそれ以前からレッスン費用が膨大に注ぎ込まれていて、その曲を弾くだけで過去に多大な金がかかっている。それを地域の老人の癒しのためにコンビニの時給で稼いだほうがいいようなギャラ、下手するとボランティアで演奏させて、音楽が生かされているなんていう解釈は害悪でしかない。
そんな仕事を請け負ったところで音楽的に向上するわけもない。若い人にそんなことはさせちゃいけない。
その手のボランティア演奏は、十分な地位があり、金もたくさん持っていて困っておらず、名声も手に入れたようなベテラン奏者が暇なときにやるのがいい。
とにかく日本は音楽だけでなく、芸術や文化が貧困ビジネスになっているところがあって、社会的弱者が社会的弱者のために金にならない(つまり生活できない)仕事を請け負っているケースが多い。
と、そんな社会問題はありつつも、やはり仕事というのは楽しくて金になるのが一番いい。
楽しいけど金にならないのは貧相だし、楽しくない上に金にならないのは惨めだし、楽しくはないけど金になるのは心が枯れる。
だから、楽しくて金になるのが一番なのである。そして、単純だけれどそれが幸せでもある。楽しいから心も充実して、金にもなって生活も潤う。
その一番も容易く成し遂げられるものではないけれど、プロジェクトとしては最低限、そこは狙いたいと思う。そうでないと関わってくれた人たちが潤わない。
とまあ、そんな気概を持ちながらプロジェクト。
うまくいくかずっこけるかはやってみなければわからない。
乞うご期待。
なんて言わないよ。だって、そんな軽いセリフを言っちゃうほど現実の厳しさを知らないわけじゃないから。これから苦難の海に潜り込むのに「乞うご期待」なんて言う気分になれない。
ついでに言うと、わたしが大嫌いなセリフは人が死んで、
「ご冥福をお祈りいたします」
ってやつ。
人が死ぬってことはその周囲にいる人が心を喪失しているのだから、人の死に対して「ご冥福をお祈りいたします」なんて軽いこと言うなよな。