結月でございます。
6日間という保育園の冬休みが終わり、今日から平常モード。6日間、まもなく5歳になる4歳児と何をして過ごしたかは雪の奥日光以外はあまり憶えておらず、まあなんとか時間を潰していたのだろう。
しかし、この6日間で自分が何か成長したとか変化があったという実感はまるでないので、大した時間の過ごし方はしていない。どうしても小さな子供とだと自分のことはほとんどできないので、そんな虚無的な感覚が到来する。
と、平常モードになった今日は決算の事務作業をしていて、これまたつまらない作業であるからいまいち生きている実感がない。
Excelに数字をひたすら入力していくだけで、なんの面白味もないのが会計作業であって、MacBook Proの傍に座る愛猫を撫でながら心地よさをブレンドする。
しかし、この決算業務は毎度思うけれど、こちらが金を払わなければならない仕事であって納得いかないものなのである。
まとめた資料を会計事務所に送り、法人税の算出をしてもらって税金を振り込み、そして会計士に報酬を払う。
なんで金を払うために仕事をせにゃならんのだろう? 普通仕事とは金をもらうためのものではないのか?
と、倒錯した感覚があるからやる気が起こるわけもなく、仕方がないからやっていて、だから毎年のらりくらりと作業をしてきた。
しかしながら、近年はそういう事務仕事も随分慣れ、会計学は実は仕事には大変役立つことを知ったゆえにそれほどストレスを感じることなく、そこそこ集中して処理スピードはアップしたように思う。
おかげでわたしみたいなガチンコな文系で、芸術志向でフィーリングで生きてきた人間も会計の基本くらいはわかるようになり、ちょっとは社会的にマシな人間になったと自惚れてみる。
と、今日は「なんでも鑑定団」をチラリと見ると、バイオリンの鑑定があった。
ガルネリ・デル・ジェスであり、その名前が出てきた段階で本物なわけがないというのが弦楽器業界の常識以前であって、それを本物かもしれないと思う素人は実にたくさんいて本来なら門前払い、箸にも棒にもかからん。
ストラディヴァリやデル・ジェスなどなど、何億円もするような銘器はその楽器の履歴が探れるから、一般ピープルの手に偶然的に渡るようなことは0%。
で、鑑定依頼のバイオリンを見ると、
「ドイツ製じゃんか」
と、一瞥してわかるのは、わたしは一応、楽器商だからなのである。着物ばかりやっていたら楽器商であると認識されなくなって、コンサートばかりやっていたら今度は着物屋だという認識がされなくなった。
よくどれが本業ですかと訊かれるが、別に本業なんていう概念を持って生きていないし、何か一つでなければならないとも思っていないので、まあやれることはやりますよ。
とはいえ、楽器商としてのキャリアはかれこれ20年くらいになるので、
「あの… 一応プロです」
と、プロたるわたしは鑑定団に出てきたバイオリンが本物であるわけがないのは瞬間で見抜けるのであり、それはニスの色だとか、スクロールの仕事具合だとか、隆起の取り方だとか、様々な要素ですぐにわかる。
そんな具体的でなくとも、楽器の風格でわかるのであるが、鑑定額はドイツ製のコピーということで50万円。値段的に大変妥当な評価だった。わたしも50万円だと思う。
ちなみにあの程度の楽器の真贋なんて、弦楽器商なら誰でもわかるレベル。
ところでわたしは陶磁器だとか焼き物には一切興味がなく、絵画は好きでも壺や茶碗、皿なんか本気と書いてマジと読むほど興味がない。
興味がないから真贋はわからず、たまにとんでもない値段がつく皿を見てもさっぱりわからないし、いいとも思わない。
しかし、鑑定士はそれを一瞥で見抜くわけで、きっとその感覚はわたしの楽器商の目とまったく同じなのだろうと思った。茶碗の鑑定ができる人でもバイオリンの鑑定はできないであろうから。
さて、オミクロン株はワクチン2回接種であれば重症化率はほぼなく、軽症か無症状であることが判明してきた。とはいえ、今日本で再び増加傾向にあるのは毒性の強いデルタ株であり、こちらはワクチンが有効で、同時にワクチン未接種は相変わらず致命的なものなのである。
これから日本でもどのように置き換わるかは今後を眺めながらであるけれど、オミクロンはそこまで怖がらなくていいんじゃね?という雰囲気が社会にあって、初詣も盛況だったらしい。
あとはコロナのネタはこの2年間ずっと内容が同じであったから、さすがに飽きてきて、
「あーもうわかった、わかった」
と、安物売りの訪問販売への対応のようである。
とはいえ、まだみんなマスクしているし、社会の通気性がよくなったとも言えず、何やら中途半端であって、要するに着物を着て出かけようというムードには至っていない。
そんなもんだから、着物の仕入れ先や京都の友禅工房なんかとも話すことが疎遠になって、
「みんな、どないしてんのやろ?」
と、思いつつ、用なき電話でもかけて、
「どない?」
と、近況を伺おうと思いながらも、なんとなく電話をかける気にもならない。
そもそも昨年はほとんどの間、コンサートの公演のことばかりやっていたものだから、呉服業界から見てわたしのほうから疎遠になっているようにも見える。
疎遠になる気はないのだけれど、如何せん、マスク姿で着物なんてわたしの美意識が許さないからマスクなしが普通になるまでは着物はちょっと難しい。
そう言えば、テレ東でバス旅を見たら、みんなマスクしているから誰が誰やらさっぱりわからず、個性が隠されて何やらインパクトが半減していた。
人間というのは顔を見せないといけない生き物であって、顔の3分の2も隠すなんていうのはなんとも不気味である。
だから、コロナが完全収束して、それでもマスクをつけ続けるような人、日本人には多い気がするけれど、顔を隠すような陰気な人とは付き合わないようにしたい。
運というのは明るいものに接するところから始まるのだから、明るい顔を見せられない人間と付き合ってもいいことはない、そう考える。
さて、2022年も本格的にスタートすることになって、今年はどんな年になるのだろうか?
どんな年にするかと自分で考えても得てしてその通りにならないのはわたしたちが社会で生きているからで、コロナの蔓延なんてその典型だろうか。
時間とは瞬間であり、瞬間の蓄積が社会の傾向となり、絶え間なくぶち当たる瞬間を捉えて生きる実存、なんてちょっとニーチェっぽく考えてみる。
今年はこれからどんな人と関わるのかさっぱり予測不能だけれど、誰かに出会い、関わりながら生きていくのは間違いのないことなので、
「ことよろ」