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教育は人のためならず

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結月でございます。

「情けは人のためならず」という言葉があって、その本来の意味は、人にかけた情けは周りまわって自分のところに戻ってくるからお得であるということで、情けをかけたらその人が成長しないから厳しくすべきという意味ではない。

わたしは日々、5歳の愛娘を過ごしていて、東京から栃木に来たのが2歳になったばかりの頃だからちょうど丸3年一緒に過ごしている。

2歳になった頃は知性的発達が遅れていて、保育園に行くと同じ歳の子供がベラベラ言葉を話すのにうちの愛娘はほとんど言葉を知らなかった。それは2歳になるまでわたしが東京で、週一回しか会わなかったために教育が疎かになっていたからである。

そうした状況があったりして、これはヤバいと思い、急遽、東京を引き払い栃木にやってきて愛娘と過ごし始め、言葉を知らぬ2歳児に毎日絵本を読み聞かせた。

あとは2歳のうちからひらがなのパズルをやらせたり、とにかく教育を熱心にやって、3歳の頃には随分話すようになったが、これは放置していたならばかなり深刻な事態になっていたのは間違いなく、野生児みたいになっていただろうと思う。

さて、教育と育児はまるで別物で、育児は忍耐さえあれば誰でもできる。とりあえずはできる。知識がない育児は子供の健康にはよろしくないが、死にはしないという意味で誰にでもできる。

しかし教育は与えるものが親になければならず、さらにそれを教えるテクニックがないとできない。だから教育は知識的な蓄えと技術を要する。

栃木に来てから育児と教育の両方をやってきたけれど、4歳になったあたりから育児分野はやることがなくなってくる。自分でトイレも行けるし、服だって着替えられるようになるから。

だから、ウエートは教育のほうが大きくなり、絵本は毎日欠かさず読み聞かせ、勉強も教え、バイオリンも教える。

さて、「情けは人のためならず」と言ったが、「教育は人のためならず」とも言える。人にものを教えることなんて、他人のためではなく自分のためなのである。

早くから勉強を教えているのは、勉強を教えないで子供の頭がアホのままだと大きくなってからが大変で、基礎学力がない中学生や高校生に受験勉強を教えるのは至難の技。つまり小さいときにある程度勉強は叩き込んだほうが後が楽なのである。

勉強ができないと学校もレベルの低いところしか行けない。そうなると付き合う友達もロクなのがいなかったりして、トラブルを起こされると困るし、変なのとつるむようになればますます勉強どころではなく、結局はいい仕事もできず、先が思いやられる。

そうなると親としては苦労が尽きないわけであるから、「教育は人のためならず」でわたし自身が困らないように教育はあるのである。

バイオリンにしたって、バイオリンが弾けたところで大した価値はないけれど、楽譜を読み、それを楽器で奏でることはとても頭を使うことでもあるし、それに自分がバイオリンの仕事をしているから愛娘が弾けるようになってくれると二重奏ができたりして暇つぶしができる。

とどのつまり、自分と同じ趣味であればわたしが楽しいからであって、これも自分のためだと言える。

もし、わたしがまるで興味がないバスケットボールなんかをやられたら親子断絶もいいところで、わたしとしてもまったく楽しくない。

よく音楽をやっている人が、音楽は心を豊にするから云々なんて話をするが、これはポジショントークであり、それは単に自分が音楽が好きだから他人にもやってもらい、自分が好きな世界が広がればいいと思う自己中心的な欲望の転嫁である。

その理屈であれば、サッカーが好きな人はサッカーをやれば豊かになれると説くだろうし、水泳が好きなら水泳こそが素晴らしいと言うに違いない。

だからまあ、勝手なもので、自分と同じ趣味を共有したいという自己満を押し付けているだけである。

とはいえ、何もないのは困る。すっからかんで好きなものもなく、趣味もないと人間は荒んでいくもので、そういう人に限って酒に溺れたり、パチンコ中毒になったり、キャバクラ通いをしたり、薬物に手を出したり、ときには他人を恨んで通り魔殺人をしたりする。

自分の愛娘がそんな人間になると付き合うのが大変だし、犯罪を犯されると親の責任が問われたりするし、そうならぬようにバイオリンをやらせている。少なくともバイオリンが弾けるようになればグレることもないだろうし、人生で思い悩んだ時はそれに見合う名曲を弾くことできっと打開できるであろうから。

だから、バイオリンをやらせているのも愛娘のためというより周りまわってわたしが助かるからである。

勉強を教えるのは、最低でも日本の国立大学には入っておいてほしいからで、私立大学だと金はかかるし、学力的にも大したことがない。まあまあの大学を卒業してくれれば、とりあえずは食っていける。よほどでない限り落ちぶれることはない。そうなると仕事もしっかりできるようになれば、親にカネを無心するようなこともないだろうからわたしが助かる。

小さい頃にかける教育費は大きなものでもないから、ここはケチらず金をかけ、将来に無駄に金がかからない人間に育てておくほうが親としてお得なのである。

そういう意味でバイオリンは趣味にとどめ、音大に行かせるようなことはしない。

音大に行ったところでプロには簡単になれないし、一口にプロと言っても食えるプロと食えないプロがいて、食えるプロはごく一部であり、しかしプロオーケストラに入れたとしても一流でなければ給料は高くないし、5歳の愛娘が大人になる頃は今よりもさらにクラシック業界は衰退してお寒い時代になっているに違いないから音楽なんて今からやっても食える確率は低い。

だから、音大に行かせるような教育は施さない。音大は金がかかるし、リターンは少ないし、プロになれなければ社会の中の役立たずでしかない人間になる可能性が高く、そんな娘を抱えると想像しただけでゾッとするからわたし自身のために音大に行かせる教育はしない。

わたしは人のためと思う教育は嘘っぱちだと思っていて、そんなもんは偽善であると考えている。

先に述べたように自分の好みをポジショントークにしているだけで、人のためを思っていると装って自分の趣味を広げたいだけであるから。

もしわたしがバスケットボール選手からバスケの素晴らしさを力説され、最高に楽しいからバスケをやるように導かれてもそれは迷惑でしかない。これと同様の理屈は音楽にだってあるわけで、万人にとって音楽が素晴らしいものであるはずがない。

とにかく、何もないすっからかんが困るから、子供のときに何か詰め込んでおいたほうがいいということ。

わたしも音楽が自分に詰まっているから音楽の仕事ができるわけで、それがなければやる仕事がなく、路頭に迷う。

「何か」がないと困ることだけがわかっているから、それが教育となって愛娘に提供される。

生きるための金目的だけになって、何もないすっからかんだと女の子だと風俗嬢になられても親としては嫌だし、その類の仕事は金にはなっても生き甲斐にはならないから本人も生きづらい。さらに年を取れば売れない仕事であり、若さを切り売りする仕事はやらないほうがいいのである。

とまあ、教育とは子供のためというより自分のためで、その行為が結果的に子供のためになっているものがいい。

学力だけあって文化がないのも寂しい限りで、学力だけの人間は学歴が良くても殺伐とした性格になるからこれも生きづらい。

そんな生きづらそうな人間が身内であるとこれまた困る。知り合い程度なら付き合わないで済むが、身内だと関わりを断ち切りにくいから面倒なのである。

だから、教育は人のためならず。

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