結月です。
毎年思うけれど盆休みは要らない。1週間も愛娘と終日一緒にいなければならないのはハードジョブであり、同時に仕事は1週間何もできないのだから。
やらなければならないことはたくさんあるのに何もできないというのは、公演以外には何の興味もないわたしにとってはものすごく辛い時間なのである。
とはいえ、愛娘のことをやるのは義務みたいなものだし、大人になってしっかりと飯が食える人間に育てておくのが務めであるから放っておくわけにはいかない。
さて、台風は関東には来なくなった。京都にいるとき京友禅の社長からも、
「台風来てますよ」
と言われたり、古い恩人からも、
「台風、来とんデ」
なんて心配されたけれど、台風は気まぐれであるから心配した人のほうに向かったようである。テレビは見ないからどの程度だったのかは知らないが、とりあえず関東には来なかった。
というわけで、
「今日は何すんの?」
が、毎日の問答となっているわたしと6歳児。外に出かけるのも暑いし、栃木県内はほぼ行き尽くしてしまったからとりわけ行きたいところもないしで、
「ガンプラ、つくる」
とのリクエストで宇都宮のプラモショップまでクルマを走らせる。実は昨日もガンプラを買いに行ったので二日連続なのである。
保育園時代から何かを作る制作好きな6歳女児は小学生になってガンプラにハマってしまった。
エントリーモデルを2体作ると、もっと難しいものがいいと言い出す。
わたしが買ったガンプラHGシリーズのザク(シャア専用)を見て、同じものがいいというのでプラモ屋に連れて行ったわけだが、HGシリーズのゲルググ(シャア専用)を選んだ。
かなりの部品数であるが作れるのであろうか?
しかし、エントリーモデルで設計図の読み方はマスターしたようである。というわけで、ニッパーも愛娘専用を買う。
まさかこの年になってガンプラを作るとは思わなかったわたし。ガンプラなんて大ブームだった小学生の頃ですら作ったことがない。令和の小学1年生と一緒にガンプラデビューするという人生の不可思議。
しかしながら、プラモデルみたいにじっと静かに組み立てる作業は苦ではない。もともと引きこもりな性格だし、人間嫌いであるからガンプラだって戦車だって航空母艦だってプラモはOKなのである。
手を使うリアルがあるからいい。だからこそ、PCで作業することはあまり好きでない。達成感にリアリティがなく、ただ疲弊するだけだから。
そんなわけで、お盆休みの残り二日間はガンプラ製作であり、早速6歳女児はゲルググ(シャア専用)を組み立て始め、その隣でわたしはザク(シャア専用)を組み立てる。
お互い静かで、
「ここ、どうすんの?」
と、時折質問を受け、設計図を見てやり方を教える。
プラモデルはロボットを作りたいという要望に応えた提案だったが、設計図を読むことは3次元の理解になる。どうせ中学生で立体図形も数学で習うし、今からプラモで慣れておくといいと思った。頭も使うし、集中力も養えるし、ガンプラといえどもこれも教育の一環のつもりである。
あとはどこかに出かけて遊んでも金がかかる。飽きるほど行った牧場や動物園、水族館に行くとガソリン代に加え、入場料で結構な金額になる。初めてならいいが、惰性で行くのにかける金でもないのであって、それならプラモデルはかなり安上がりで済む。それに暑くない。
そんな考えもあって残りの盆休みはガンプラで時間を潰す。
ザク(シャア専用)を作ることはわたしにとって何の収穫はないが、愛娘のためと思って付き合うことにする。
願わくば、バイオリンをもっと弾けるようになって、暇つぶしがバイオリンだといい。やることないからモーツァルトでも弾こうかという時間の潰し方。
楽器ができると上質な暇つぶしができる。一生かかっても弾ききれない名曲がバイオリンにはあるのだから。
その頃にはわたしがそばにいてやる必要もないが、たまに二重奏でもできれば楽しいわけで、音楽なんてその程度がいいと思う。というのは音楽は仕事にすると暇つぶしな楽しみでなくなってしまうからである。
どんな好きなことでも仕事にすると楽しくなくなってくる。そこには責務が発生するからである。
それに好きなことを自由にできて、それが金になることは滅多にあることでなく、好きなことでも好きなようにできない制限の中で何とか金にしていく。どんなにすごい人でもそこからは逃れられない。
わたしも好きなことを仕事にして生きているが、興行的に失敗すると好きなことのせいで破産したりする。好きなことをやったせいで首が回らなくなる、そんな危機の怖さの中で仕事をしている。
それが嫌なら好きなことをほどほどにできる会社に勤めて、他人から給料をもらう職に就くことで、でもそこにはあまり自由はない。
とまあ、大人になればそんなものだから、子供のうちにガンプラでも作っておくのがよろしい。
そしてガンダムファンでもないわたしは6歳児に付き添いながら、この間まで保育園だった子が3次元の設計図を見て組み立てている成長ぶりに些か感動しているのである。