結月でございます。
一応わたしは人にモノを売ったり、サービスを提供したりしているBtoC業者であるから、相手はクライアントと呼ぶより「お客様」である。
お客様という立場はスーパーに買い物に行くだけで自分もそうなる。だから自分が客としての振る舞いを考えることもあるし、接客として客観的に見ることも多々ある。
こういう接客は丁寧すぎてクドくて嫌だなとか、ちょっとしたところが好感が持てていいよねなんてこともあり、良いも悪いもいろんな接客を体験する。
わたしの結美堂は個人商店みたいなものであるから、ひとりでやるのに大企業のような紋切り型な接客はやるわけはなく、どちらかというと小さな居酒屋である。
ところでモノの売買はわかりやすいけれど、修理を預かることは単にモノを売るだけのように単純でもない。
修理は元の状態に修復する作業であり、その品物に対するお客さんの思い入れもあれば、どの程度まで直せるかもわからない場合もあるし、修理してみてお客さんが大満足する結果もあれば、ここまでしか直らないかと落胆される場合もある。
ともかく、修理を預かるときはお客さんが自身のお気に入りが破損したりして気持ちがナーバスにあっていることが多い。だから、その気持ちを喜びに変えてあげることが大事なのである。
しかしながら、修理を預かるときは思わず、
「うわぁ… こりゃ大変だな… えっと、ここを交換して、あそこを修復して、うぎゃ〜ちょっと手間がかかりますよ。これはちょっと金額はいきそうだな」
なんて職人的な人は言いがちである。
作業をするリアルな大変さが職人にはあるから、思わず自分目線でそういう言い方をしてしまう。しかし、客にしてみればこんな言い方をされるとなお一層気持ちはナーバスになり、落ち込んでしまう。
わたしも弦楽器を扱っていて、思えばこういう言い方をしてしまったことはあったなと振り返る。
美しいバイオリンが落っことしてしまってネックからボキリと折れた状態など見ると、ギョッとしてしまい、
「こりゃ、大変だ…」
と反射的に言ってしまう。
着物の場合はそんなことがない。シミが付いてしまったとか、それを見ても、
「まあ、きれいになりますよ」
と言った感じだろうか。
そこで思うのは、ネガティヴな状況に対して、ネガティヴな対応は良くないということ。
破損がひどいとそれを修復するのが大変で、その作業をする気持ちをわかってくれよと意識しなくともそんな気分になってお客さんである相手に大変さをゴリ押ししてしまう。
しかし、お客さんにしてみればマイナス面を聞かされるよりプラス面のほうが安心するわけで、いくら大変な状態でも、
「こことここをこういうように直すと元に戻りますよ」
というように、自分の大変さをアピールするのでなく、良くなる目標を提示してあげたほうがいい。
これは修復を仕事にするすべてのジャンルに言えることで、お客さんの不安を煽らぬように心がけるのがいい。
大事なものが壊れてひどく落胆している人には、
「お任せください」
という言葉が嬉しいわけで、それは医者も同じであろう。医者が診察のとき、
「うぎゃ… これは大変だ…」
なんて言うようなら、患者は極度の不安に陥る。
教育にしても勉強ができない相手にネガティヴに接しすぎるとやる気が損なわれる。ただ、教育は息が長いものであるから、すべてを肯定でやると今度は甘えてしまって駄目になる。だから、アメとムチで時には厳しい現実を思いしらすことも必要かもしれない。
ところで修理には金がかかる。一体、どれくらい金がかかるのかもお客さんにとっては不安であって、この伝え方も難しい。
デリケートな問題であるから、あまり直接的に言わないように意識が働いて、
「25000円くらいになってしまいます…」
みたいな表現もあまり気持ちがいいものではない。「なってしまいます」なんて言われるとなんだかこちらが貧乏であるかのように思い、修理の予算も告げていないうちに気を使われすぎた言い方をされるのも癪に障る。
「大丈夫。きれいに元通りになりますよ。費用は25000円です。お任せください」
と、こう言われると金のことも納得し、
「ではお願いします」
と言いやすいだろうか。
しかし、日本は長く続きすぎている不景気、というかさすがに失われた30年までくると、それが実力と言ってよろしく、金額の査定があるものには店員が初めから金額を言うことに申し訳なさそうにしていることが多くなった。
古い体質のガチンコな職人なら、
「修理費は10万だね」
と、愛想なくぶっきらぼうに言い放ち、気に入らなければ他所へ行けとばかりに威張る。
しかし、価格ドットコム的に価格の比較がネットで容易くできる時代にはガチンコ職人系はあまりはやらず、恐る恐る金額を言う申し訳ない系が主流になる。
修理というのは難しい。なぜなら職人や技術者の腕前に差があるからで、同じ修理項目でも仕上げりにかなりの差があったりする。そこが素人である客には判別がつかないから迷うのである。
下手くそな職人や技術者に当たってしまうと、仕上がりが最低だったりして、下手すると仕上がりの悪さを直しに別のところに行かなければならないこともある。
だから、少々値段が高くても技術に信頼がおけるところがいいとなるわけだが、いくら技術があっても「こりゃ、大変だな…」的なネガティヴな対応をされたくはない。
一方で、ポジティヴに対応してくれて、気持ちよく修理を預けたというのに仕上がりがイマイチであるのも困る。そういうのは、
「いい娘、いますよ。超カワイイ娘、揃ってます!どうっスか!?」
なんて客引きで行ってみたキャバクラや風俗店がブスばかりだったなんていうことと同じだろうか。
結局は信頼なのかもしれない。
信頼は言葉から生まれる。
「こりゃ大変だ…」と頭ごなしに言われると信頼でなく不安が増殖するし、軽すぎる言葉や紋切り型で丁寧だけれどハートがないメッキ仕上げの言葉も信頼にはつながらない。
修理をうまくする、仕上げを完璧にするというのは自分目線の自己満職人的な立場で、お客さんのハートへの想像力がない一方通行。
だから、「良くなるよ」と言ってあげることが大事で、さらに本当に良くなるくらいの技術力がなければならない。
その仕上がりの良さを見て、お客さんのほうから提示した金額が安すぎるよと言われるくらいがいい落とし所。
アメリカのようにいい医者やいい弁護士は報酬が高いが当然いい仕事をするという信頼もわからなくはないが、そういうのは社会がギスギスする。
しかし時代は「良くなるよ」と言ってあげる方向へ向かっている。自分の作業の大変さを強調するような昭和的職人肌はやっていけない。
とはいえ、医者とか職人、さらに士業はまだまだ自分目線だけの人が多いような気がする。専門色が強すぎて、他者への想像力が培われにくい、それを培う余裕も暇もないのかもしれない。
と同時に気を使いすぎて、何を言っているのかぼやけてよくわからないのも嫌なもので、
「端的に言ってくれない?」
と、遠回しの婉曲表現を遮って言いたくなる。
できれば端的な言葉で安心させてもらいたいものだ。