結月でございます。
わたしが住んでいる地域の市長選が月末にあるらしい。そんなポスターを見た。
しかし、現職と新人ひとりの選挙戦でどちらかってことになるのだけれど、どちらも年寄りで、
「どっちを選ぶのもちょっと…」
と、あまりにもフレッシュさがない告示ポスターにどーでもいい感がハートに溢れ出す。
選挙戦が12年ぶりとのことで、つまりそれまで対抗馬もいなかったとのことか。そして対抗の新人が81歳で、
「要するになり手がいないってことね…」
と、またしてもどーでもいい感。
いやいや、そんなこと言っても、アタシなんて東京にいる頃から選挙に行ってないから関係ないんだけど、せっかくこっちに来たし、意識高い系になろうと思ってるわけで、でもあのポスターを見ると、う〜ん。
とはいえ、地方の田舎は高齢化が進んでいるから、住民のニーズを考えれば年寄りがやるほうが多数決的にはニーズを捉えたことができるってことかな。若い人が市長になって、
「デジタル化を推し進めます!」
と言っても混乱するだけで、やっぱり若い人には年寄りの気持ちはわからない。
ところで哲学者の東浩紀さんがTwitterで、
「ひとを動かすには信頼を得なければならない。その点で日本の政府と専門家は失敗続きだった」
と、つぶやいていて、
「そうなんだよね」
と、わたしも思う。
政治家は自分の支持基盤のために行動するのでそこ以外のところには信頼を求めないからわかると言えばわかる。でも、感染症の専門家は科学的には正当なことを言っていても、人間の心情、人間の行動原理的にはかけ離れたことを言っていて、いくら知識は正しくてもそこは伝わらないだろうなっていうのはすごくわかる。その一方で、モーニングショー的なワイドショーがデタラメで不安を煽りまくって、非科学的な層を刺激している。
あとは感染症の病床を一年経っても大規模に増やせない事情。法的な問題や自営業である開業医からの利権などなど、一番やらなきゃいけないことが日本では何もできなくて、だから自粛となっているのはガッカリというか、絶望的な気持ちになる。
日本人特有の現象で、それがわかればわかるほど、
「もうしょーがないよ…」
と、諦めの気持ちになるわけで、いくらこうしたらいい、こうすべきという理想を吠えたところで、利権の壁は越えられないし、それを超える政治力は民主主義の悪い側面たる支持基盤への奉仕という鉄則があるがために医師会には逆らえないからコロナ病床は増えない。
そんな事情があるから自粛とか無理強いがあって、挙句の果てにはうちわ会食なるものまで出てきたりする。
やはり無理強いには限界があって、人に何かをしてもらうには東浩紀さんが言うように信頼を得ていないとできない。
一般的なサービスは金を払うからやってもらえるのであって、見ず知らずの人に対して金も貰えないのに何かしてやるなんてことはない。
いいレストランだって、いいホテルだって、飛行機のファーストクラスだって、風俗店だって、ソープランドだって、ホストだって、それらは高い金を払うからいい対応をしてもらえる。金がもらえるなら信頼がなくても我慢できる。
ただし、いくら店とは言っても、やはりそこは人と人なのであるから、金を払ったら何をしてもいいとはならず、いい客とは金も払うけど従業員に対して配慮があり、だから店と客の信頼関係がある。
そこを逸脱すると、
「お代はいいんで、帰ってください!」
となる。
なので、金というのはそういう問題を解決するための仲介役なのであって、だからこそ金銭が発生しない「お願い」は信頼という名の金がなければならない。
感染症など社会的なものは不特定多数が相手だから、だからこそ政治が信頼感を得られなければ大事なときに動いてもらえない。
あとは友人関係や家庭関係、夫婦なども店のサービスとは異なり、金銭の額面で「お願い」できるものじゃない。
となると、相手への信頼という名の金が貯蓄されているべきで、それがないといくら親密な関係でも「お願い」は聞いてもらえない。
そして、関係が近しいほど小さなことで信頼は損なわれる。
友人なら借りた本を返さなかっただけで信頼は薄れるし、夫婦であれば毎度服が脱ぎっぱなしだとか、鼻をかんだティッシュがテーブルに放置のままとか、今ならそれがマスクの放置かもしれない。食後の食器洗いがどちらかに負担が偏っているというのも信頼を壊す。
「親しき中にも礼儀あり」
であって、近い関係であればあるほど、相手への配慮、それは特に小さな配慮が必要なのである。しかし、近い関係だからこそ横柄になりやすく、大変難しい。
人間には大きな配慮は意外と要らないもので、むしろ日常の中の小さな配慮が大切。裏を返せば、小さな無神経が積み重なると人間は暴発してしまうからで、本当に身近なものの配慮が求められる。
そこが一人暮らしとは異なるところで、ひとりであるならその部屋がゴミ屋敷でも構わない。でも、ひとり以上の共同空間となるとそうはいかない。そういう身勝手は信頼関係を瞬間で潰してしまう。
それが大きなものになると「社会」になる。十人十色の人々で構成されていて、この統治は容易でない。容易でないから歴史では独裁が生まれる。力づくでまとめようという考え。
感染症に関しては中国のような強権国家のほうが向いていて、事実、ちゃんと結果が出ている。
しかしながら、日本のような民主主義国家では選挙がある都合、それはできない。できないから自粛要請になり、さらに政治にヴィジョンがないから行き当たりばったりになり、結果、信頼を失う。
そして制御不能。
とにかく、信頼というのは金と同じ。いや、金よりも力が強いかもしれない。
いくら金を持っていても、信頼を得られない体質の人は「お願い」を聞いてもらえず、だから結局金で解決するしかない。すると金の獲得が目的になってさらに信頼を得られず悪循環になる。
しかし、世の中の大半のことは金でどうにかなるとはいえ、金でどうにもならない事例もある。そういうものに限って生命に関わる大きなものだったり、自分の人生をお釈迦にしてしまうもので、それを解決するには信頼しかない。
その信頼を失うと小室圭さんや眞子さまのようになる。これは取り返しのつかない信頼の失墜であり、そうなると人間社会の中では生きづらい。
小さな配慮を欠いて信頼を失ってしまった人は孤独なものなのである。
独りでいることが好きという孤独ではなく、信頼という名の貯蓄がない孤独。
コロナ対策で政府や専門家の「お願い」が無視されがちなのは信頼の欠乏であるけれど、その原理は個人でも同じで、とりわけ関係が近しい仲であるほどそこは大事にしなければならない。