結月でございます。
サブカーとして中古の軽自動車を買えば生活全体のコストも下がり、今乗っている愛車も温存できて長く乗れるのではないかと思い立ち、早速ネットでこれと思ったダイハツ・ミライースを見に行ってきた。
走行距離も少なく、状態もよろしく、お値打ち。
しかし、いろんなクルマを見ていると、なんでこんなクルマが高いんだと思うことがしばしばあり、新車と違ってスペックだけで値段をつけられないものは得てしてこうなることは弦楽器販売をしてきた経験でよくわかる。
どれくらい使い込んで劣化しているだとか、また使えるようにするには整備にいくらかかりそうだとか、そのあたりを計算して、
「まあ、大体こんなくらいだろう」
と、値段をつける。
大していい音がしないバイオリンだって、それがフレンチもので、100年程度昔のものとなれば、フランスで製作された、100年ものという音とは関係ない概念が入ってきて、そこが土台になって相場が決まり、具体的な値段が決まる。
クルマも新車の段階で様々なオプションがつけられたりして、同じ車種でも内容が細々と異なったりするものだから値段がバラバラになる。
同じエンジンでも車載のカーナビがあればその分高くなるし、なければ安くなる。走りには関係ない。
だから、わたしみたいにカーナビはiPhoneでYahoo!カーナビという人には車載のカーナビなんて無駄なものでしかなく、なくてよろしいと安い値段になる。
さて、軽自動車なるものを改めて見てみると、後部座席に座って後ろから激突されたら、
「死ぬよね」
と、瞬間で思った。クラッシャブルゾーンが20センチとか、怖くて軽自動車の後部座席には人を乗せられない。
とはいえ、わたしの場合は軽自動車に乗るとしても後部座席を使って3人乗ったり4人乗ったりすることはあるはずもなく、座席を常に倒してトランクスペースにするだろう。
しかし、全体的な作りは軽自動車はさすがに薄くてペラい。見るからに剛性もなく、これで高速道路は危険。危険すぎる。それにエンジンが非力であるから、夜中の高速道路で死角に入って迫ってくるダンプカーから逃れるダッシュはできそうにない。
生命的にはあまり守られていないクルマであるから、軽自動車は街乗りなものというのがわかった。
と、長距離を乗ったりするときは愛車のメルセデス・ベンツというわけで、愛娘の送迎程度で軽自動車はかなりコストカットが実現できる。
街中の走行で片道30キロ程度であれば、軽自動車でもまあいいだろう。それほどスピードを出す道路もない。
さて、ちょっと政治の話をすると、岸田首相である限り日本が景気回復することはないことがすでに確定した感じがする。コロナワクチンの対応も大臣がダメダメすぎて、あの女の駄目ぶりのせいで死んでしまったという人も結果的には出てくるだろう。一体、あの女はやる気があるのだろうか?
とにかく岸田首相は駄目すぎる。人の話を聞くなんて自分で言っていたけれど、人の話を聞きすぎると方針が曖昧になり、中途半端でバシッと決められない。
芯がない人が他人の意見を聞きすぎると何もできない。いろんな占い師のデタラメを聞きすぎてどう生きていいのかわからなくなる哀れな女のようである。
願わくば、来年夏の参院選の前に首相は交代していただきたいもので、日本のジリ貧体質をどうにか断ち切れるのは岸田さんとは真逆な人間であろう。
ところで、クリスマスということでスーパーに行くと鶏の骨付きもも肉のローストが大量に売られていた。
しかし、日本のローストチキンはなぜあれほどまでに不味いのだろう? センスがないというか、無知というか、まるで中国人が作ったピザのようである。
中国は中国料理というものすごいものがあるし、日本ほどコスモポリタンな寛容性が乏しいから中国で売られているピザは恐ろしく不味い。まるでちょっと昔の劣悪中国製の家電製品をピザにしたような感じなのである。
家電製品も今や中国製はかなりのクオリティになったから、ピザも本場イタリアに近づく可能性もなくはないが、しかし日本人は奇妙な民族でうまいピザを出すイタリアンは個人経営のところからたくさんあり、窯も本格という不思議なところがある。
それなのに日本人のローストチキンは最低最悪、中国のピザレベルで、それがあれほど大量にスーパーにお並べられているのを見て、あれがそれぞれ鶏の太腿を切断されたものだと思うと鶏のことがかわいそうになってきて見るに堪えない。
下手くそな料理がなぜいけないか?
それは肉であれば生きていたものを殺して食材にしているのに、それを食べるに不快な下手くそな料理で捨てたくなるような物質にしてしまうところにある。これは野菜も同様で、せっかく育った小松菜を見るも無残な姿にしてしまうのは罪深い。
わたしは料理が恐ろしく下手くそな人というのは、そこに愛情がない人間なのだと思う。愛情がないから食材を見るに堪えない姿にしてしまうし、愛情がないから作ったものも不味い。
スーパーに並べられるローストチキンはただクリスマスだからというだけで大量生産しているだけで、おいしいものを作ろうという愛情がない。しかも日本はキリスト教国ではないから見よう見まねのクリスマスで、雰囲気でしか捉えていない。
と、そんなことを思いつつ、ローストチキンがうますぎるフランスのことを思い出す。
パリやリヨンの市場ではたくさんのローストチキンがくるくると回転して加熱され、肉汁を滴らせている。
リヨンにいたときは毎週開催されるマルシェで買い、食べていた。
ソーヌ川沿いに立ち並ぶあの屋台に行きたいと思いつつ、まだしばらくコロナで海外には行けない。
思えば、25年前のクリスマスはパリにいたのだった。シャンゼリゼのイルミネーション、そしてサン・ミシェルの灯を憶えている。
パリのクリスマスはまるでロックダウンしたかのように人気がなく、巣篭もりなのだ。カトリックの国でイエスに祈るのだろう。
その頃わたしのハートはすっかりフランスに染まっていて、わが街となったパリの中に日本から訪れた人を受け入れたのであった。