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ミクロとマクロを倒錯するとうまくいかない。

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結月でございます。

2ちゃんのひろゆきが生配信で頭が悪い女の特徴みたいな話をしていて、それは、

「今年はピンクが流行ってるみたいよ」

と言うと、

「え〜 アタシ、ピンク嫌い〜」

と返す女。

世間での流行の話をしてるのにお前の好みなんて聞いてねえよ!ということ。

しかし、こういう論点を一致させられない話し方をする人って結構多いように思う。

話をするときに論点が一致してないとか、筋が異なるところに飛躍されるとこれは大変疲れる。疲れると通り越して頭に来てしまうし、カチンと来るを通り越して、もうその人とは話をしたくなくなる。あっち行けよ、という感じになる。

ピンクが流行っていることに対し、事例をあげてピンクがダサいことを語るのであればまだ聞ける。もしくは嫌いである個人的理由がとてつもなくおもしろいのであれば話として盛り上がりオッケーだと思う。

しかし、ただ「アタシ、嫌い」と言われても、よほどその人が魅力的でない限りは話をする価値がほぼない。

これはミクロとマクロであって、つまりピンクが世間で流行っている事実はマクロであり、ピンクが嫌いというのは個人的好みでミクロ。

すなわち、ミクロとマクロの視点をごっちゃにしてしまう例がしばしばある。

先日、ニュースを見ていると、沖縄のどこかに国が自衛隊のミサイル基地を作るとして、自分の土地が建設予定地に組み込まれてしまった人のインタビューがあった。

「国がわたしたちのことを考えてやってるとは思えませんね」

みたいなコメント。

そりゃ、そうだ。国はあんたの人生なんか考えるわけがない。なぜなら国の行いとはマクロであるから。マクロとしては沖縄にミサイルを配備しないと中国との軍事バランスや台湾有事の際に本土を守れないという考え方となる。

マクロとしての国家的安全であるから、そこの土地で野菜を栽培している人のことは考えられない。

一方、自分の土地から立ち退きを迫られている人は自分の人生の問題で、そのミクロな視野からは国家なる大きなマクロは見えやしない。だから国は暴挙を行う権力に見える。

世間ではピンクが流行っていることに対し、アタシ、ピンクが嫌い!という構図と同じ。

これは政治にも表れていて、与党は国家運営をするからマクロ的なことをやる。そして、れいわの山本太郎みたいなのは政治をミクロで見ていて、

「苦しんでいる人がいるんですよ!」

という主張になる。

しかし、国家は大きすぎるものであるから、個人にはアプローチできない。

山本太郎が記者会見で、

「永田町の間抜けな権力者を食い散らす」

と言ったらしいが、政治家は国家権力を求めるものであるから選挙で勝利し、与党になることを目指す。しかし、権力者を食い散らすと権力者がいなくなって国家運営ができなくなる。食い散らして山本太郎が国家運営に携わる立場になろうというなら、今度は山本太郎が権力者になる。

と、ちょっとした矛盾が生じてしまって、これは反政府であった共産ゲリラが政権を取ったら独裁が始まるという理屈にまあまあ合致する。

農民の味方であった革命家。本来はミクロの思いやりで戦っていたのに革命が成功すると強権なマクロになって革命以前よりもひどい恐怖政治が始まる。

であるからして、ミクロとマクロを混同することは危ない。

得てして小説家や文化人は反体制が多く、左翼的であるのだけれど、それはそうした立場の人たちは総じて社会経験がないからだろう。マクロ視野で仕事をする経験がないため、個人の人生などミクロでしか物事が見えない。

となると、

「貧しい人がいるのに一体政治は何をやっているんだ!」

という主張になりやすい。

そして、小説、特に純文学の題材にはそんな貧しい人がテーマになったりして、マクロが描かれることはない。

しかし、マクロは存在していて、社会はマクロで動いている。

このギャップというか、倒錯がどうも社会をややこしくしてしまっている。

どちらも事実として存在しているにもかかわらず、筋を違えて倒錯してしまう。

世間でピンクの流行を話しているのに個人的趣味を主張したり、逆だとピンクが好きという話をしているのに、「ピンクって流行ってないよね?」と返すように。

思うにくだらない諍いはこうした倒錯から起きる。国会論戦を見ても筋の違うレベルでの問答が多い。

まずは自分で話している内容がミクロなのかマクロなのかを自分で理解していることが求められる。この判別は根本的に大事な能力であるが、意外とそれを分けて考えられる人は少ない。

どちらが優先すべきかは事例によって異なるけれど、多くはマクロがまず先行して、次がミクロであるほうがうまくいくとは思う。

このことは新型コロナウイルスの出現でよくわかったことで、個人のミクロに任せてしまうと意味のない感染対策が噂レベルで広がってしまい、消毒液を空気中に散布する機械が売れたり、誰も人がいないところでもずっとマスクをしたり、緑茶を飲めばウイルスが死ぬから飲むべしなどあまりにも愚かな風景になる。

だから、マクロな視点で正しい情報を発信し、そこにミクロが従う、そうしたほうが感染症に関してはいいとコロナ禍でわかった。

とはいえ、やはりミクロは理解力に差があるため、いくら正しい情報を発信してもワクチンを打てば危ないだとか、呆れるような陰謀論を本気で信じて怯える人が出てきてしまう。

人間とはミクロで生き、同時にマクロの中で生きている。どちらも取り除くことができないもので、両者並存で生きている。

しかし、カセットテープはなくなり、ガラケーは廃止され、フィルムカメラはなくなり、そのうちガソリン自動車もなくなる。

否が応でもマクロは進行し、ミクロな好みをマクロは相手にしてられない。

ミクロ重視の純文学が売れなくて、ミクロ重視の主張をするリベラル左派が選挙に勝てない。それは世の中自体はマクロで動いているからだろう。

そして、読者がいない、投票する人がいないという事実は、ほぼ多くの人はマクロを意識して生きている。

かと言って、ミクロを軽んじていいという意味ではないが、ミクロに埋没すると誰も興味がない個人的好みを主張して、

「アタシ、ピンク嫌い!」

と言ってしまうのである。

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