結月でございます。
愛する「とちテレ」。それは栃木県のローカルテレビだけれど、電波が弱くて栃木県内でしか見ることができないレアなもの。そして栃木県民しか見ることができないのに栃木県民からはほぼシカトされていて、見ているのはきっとわたしだけだというテレビの秘境。
しかし、素人歌番組「うたの王様」には素人のじいさんやばあさん、おっさんやおばはんが毎度出ているから、わたしプラス数十人はとちテレを見ているのかもしれない。
今日はそんなとちテレで「カミナリのチャリ旅」を見ていて、これは漫才コンビのカミナリが出ている。正直言ってカミナリは全然おもしろくなくて、見るからにB級という具合。しかし、とちテレはB級以上が出ればそれは違和感があっておかしくなるからB級でよろしい。
そんな「カミナリのチャリ旅」の合間のCMで、とちテレで毎週木曜日23時から「エヴァンゲリオン」をやっているとあった。
テレビ版は見たことがなかったので、綾波レイちゃんのことが大好きなわたしは23時までちゃんと起きる。と言ってもその時間はいつも起きているが、4歳児も綾波レイちゃんを見たいというので一緒に起きて、一緒に見た。
しかし、とちテレは時代錯誤のテレビで、昭和50年代の時代劇が「○月○日から放送開始!」みたいに扱われて、画面サイズは4:3で大昔のドラマが放映されている。
それだからエヴァンゲリオンもやるわけだが、まだエヴァンゲリオンは1993年のものらしいからとちテレとしてはかなり新しい作品になる。
番組を見ればあまりに金がないと一目でわかるとちテレ。その金欠ぶりは加速しているようで、わたしが栃木に来るようになった4年前は地元ネタのもっとおもしろい番組があったのだけれど、それらは毎年の番組編成でなくなっていき、今はかなりお寒い状態なのである。
ところが不思議なことにCMで鬼滅の刃の最新作「遊郭編」が流れ、土曜の23時30分から放映されている。フジテレビの一週遅れなわけだが、どうしてこんな話題作がとちテレで再放送されるのだろう? 栃木県民でさえ見ないとちテレであるのに。
と、世の中の不可解さを覚えながら、エヴァンゲリオンを見る。編集された劇場版よりテレビ版のほうがよさそう。
今日の第9話では大好きな綾波レイちゃんが少ししか出なくて、アスカばかりだった。
アスカはいらん。
わたしは静かな女が好きなのである。
制服を着た綾波レイちゃんは難しそうな数学の本を読んでいるときアスカに挑発されても、あのアンニュイな声で、
「命令ならそうする」
と、静かに一言。
ああ… たまらんやないか… レイちゃん大好き。愛している。好き好き大好き、超愛してる。
綾波レイちゃんは勉強熱心っぽいし、頭がいい女が大好きな「頭がいい女フェチ」でガチレズなわたしは綾波レイちゃんが理想なのである。そして、余計な感情がないところがいい。
女で不安定なのはかなんわ。ふらふらはっきりせんのもいらん。面倒や。ぐじゅぐじゅするのはもっとかなん。
感情の起伏というのは人間の醜い姿であって、だからできるだけ感情はぐらつかないほうがいい。綾波レイちゃんはそういうぐらつきがないから好き。
そして、相手の感情の起伏を起こさせるのもよろしくない。イライラさせたり、ええ加減にせえよ、と言いたくなるようなのは感情が不安定な人間が引き起こすものだから、こういうのがそばにいると大変困る。
なぜなら、こちらが感情の起伏をなくそうと美的に生きようとしても、不安定なのがいるとこちらの波動がどうしてもぐらついてくるし、それを安定化させようと労力を使う。だから疲れる。無駄なことをさせられたとムカッとくる。そうするとこちらまで醜い姿になる。
だから、綾波レイちゃんのように必要最低限のことしか話さない無口が一番いいわけで、それでいて芯がしっかりとしていて、
「命令ならそうする」
なんて言えるところがいい。
なんだかわたしは無駄な言葉というやつがものすごく嫌になってきていて、メールの出始めに「お世話になっております」なんて読むのも嫌。何度もやり取りしている相手だったらもういらないと思うが毎度律儀に書かれることが多い。だから、仕方なしにわたしもそう書くときはある。
そんなものだから、回りくどい説明とか聞かされるとイラついてしまう。そんな遠回しで、くどい説明は要らないから、はっきりと端的に言ってくれよと思う。
つまり今は、相手を気遣いをしようとするあまり、余計な言葉が多くなり、角を立たせないようにと包装紙で包みすぎな言葉遣いばかりなのである。そうなると一体中身は何なのかよくわからなくなる。
今日もとちテレの「チャリ旅」見ていたら、宇都宮のLRTの担当の兄ちゃんがすべての語尾に「させていただきました」をつけていい加減鬱陶しかった。一体、誰にさせていただいているのか?
誰も許可なんか求めちゃいないのに、勝手に許可を求めたような表現にうんざりする。
兎角、説明的すぎる時代で、とにかくうるさい。鬼滅の刃はそんな時代の象徴みたいでセリフが説明的でうるさい。でも今はそれくらい説明してやらないとわからないのかもしれない。
そして、説明的でうるさいわりには何が大事なのかはっきりと言わない。まるで岸田首相である。
しかし、それは美しくはないのである。
説明過多な時代であるからこそ、綾波レイちゃんの無口でサイレントなところが放映20年後になってわたしを魅了する。もし1993年にリアルタイムで見ていたらもっと違う印象だったかもしれない。
世の中は説明が多くて、言い訳が多い。まるで小室圭の釈明リポートのようだ。
一方で無人の冷凍餃子店が出てきたり、スーパーやコンビニでセルフレジが多くなったのは説明過多から逃れる快適さのせいもある。
人を雇わなくていいというコスト面もあろうが、客のほうもコンビニでいちいち「袋は有料になりますが、どうなさいますか?」なんて訊かれることにうんざりしている。マックに行けば、こちらが注文しようとする出鼻を挫くように「当店おすすめの何某はいかがですか?」などと言われる。否応なしにその説明を聞かなければならない。こちらがほしいのダブルチーズバーガーだけであるというのに。
綾波レイちゃんがいい。余計なことは一切しゃべらない。こちらが黙っていてもずっと黙っていてくれる。無口でいても気を使わずに済む。
ところでわたしは毎日4歳児といるが、言語発達が著しくて、質問責めの日々である。うるさいったらない。
人間はそうやって言葉を習得していく。しかしいずれは緻密な具象絵画が抽象画になっていくように言葉は豊饒に到達するとサイレントな方向に向かいたい。
アール・ヌーヴォーがアール・デコになって、しかし今ではアール・デコですら見るのは煩わしい。
豊饒が咀嚼されて、削ぎ落とされて、本当に必要なものが見えてくる。きっとそれが本質。
抽象化に向かっているわたしのそばには豊饒へ向かおうとする4歳児がいる。
できれば綾波レイちゃんのような女になってほしいが、そうはならなさそうである。
しかし、思えば綾波レイちゃんは綾波レイちゃんでしかないから、綾波レイちゃんのような女はこの世にいないのである。