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嘘つきなヒューマニズム

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結月でございます。

公演が終わって3週間になろうとしている。とは言っても、まだ公演後の事後処理という事務作業が残っていて、わたしにとってまだ公演は終わっていない。たくさんあった書類をまとめ、それをExcelに記入したりとそんな仕事で、やっと次の月曜か火曜には終えそう。きっと事務作業に卓越した人であったら数日で仕上げられるに違いないが、その辺りはあまり卓越していないわたしはのろのろとしていて、猫に邪魔されたり、4歳児の保育園のお迎えがあったり、土日は4歳児と終日一緒なので基本的に業務はできないから時間がかかる、と言い訳してみる。

しかし、それが終わっても今度は結美堂の決算期の都合、年内にはまたさらに書類をまとめたり、事務作業をしなければならない。

というわけで、わたしの年末は事務作業が満載。そして、恒例の忘年会をうちの生徒さんたちとでやっておしまい。

さて、先日、4歳児と行きつけのショッピングモールに行くと、

「障害者の方が描いた絵」

というタイトルでそれほど多くはない絵が展示されていた。こういう展示はしばしば見かける。

しかし、「障害者の方が描いた絵」という言い方がものすごく気になって、つまり障害者への理解を促そうというヒューマニズムでやっているつもりであろうが、ひどく差別的に見えたのである。

そもそも絵なんてものは障害があるかどうかなんて関係がない。身体的に障害がなくても絵は下手くそな奴はいっぱいいるし、知能的に障害があってもなかろうとも絵には関係がない。絵はおもしろければよく、障害の有無はどうでもいいのである。

障害があってもこんな素敵な絵を描いている!というアピールなのだろうけれど、その視点こそが差別的であり、相手を見下している。そんなタイトルで展示会を行なっているあなたはどれほどの絵を描けるのか?

パラリンピックのように明らかな身体的欠陥の上で水泳をしたり、球技をしたりというハンディキャップであれば理解できなくはないが、絵は障害者という位置付けがハンディになるものでない。

それどころか「障害者」という言葉が本来おかしいのである。

フランスの現代哲学者のミシェル・フーコーは「監獄の歴史」だったかで、精神病院なるものができたのが近代で、それ以前は今でいう精神異常者も社会の中に普通に溶け込んでいて、つまり精神異常者であるという概念がなかったと言っていたように思う。

すなわち、近代において精神異常者というレッテルを設けることで線引きをしたわけだ。線引きをして精神病院を設け、精神が異常だと言われる人間を病院という監獄に隠した。そして異常ではないとされる人間だけの社会を構築する。

今は障害者と言ってすぐに隔離されることはないにせよ、支援学校というこれまた偽善的にも聞こえるネーミングの特別な学校に入れたりする。明らかに「障害者」とそうでない人を線引きしているわけである。

そうした線引きがあるからこそ、一見ヒューマニズムに見えても「障害者が描いた絵」という展示会がなされる。そしてそれらを見る人も、

「障害があるのに頑張ってるねぇ」

なんていう感想を述べる。

そう言えば、目に見えないピアニストという言われ方をする人がいる。わたしは彼のピアノを随分前テレビで見て、

「こいつは下手くそだな」

と感じた。

ピアノは目が見える見えないは関係がない。音楽的にスゲーかどうかなのである。目が見えてもピアノは下手くそな人はいっぱいいる。ところが世間というのは目が見えないのにピアノが弾けてすごいね、という見方をしがちなのである。

彼のピアノは上手だと思う人はいるかもしれない。今はもしかすると上手くなっているのかもしれない。でもわたしはわたしの基準で彼は下手くそだと思ったし、本当にすごいピアニストは最初からすごいから急に上手くなるなんてことはないと思っているし、前より上手くなったねなんていう評価は要するに下手くそなんだと思っている。だから彼のピアノには興味がない。下手くそだと思うから。

さらにこんなことがあった。

テレビだったかネットの広告だったか忘れたが、何かのCMで、

「誰もが自分らしく生きられる社会を作りたい」

というキャッチコピーがあった。

これも嘘くさいヒューマニズムだと思った。特に今ありがちなフレーズである。

誰もが自分らしく生きられる社会? 日本は自分らしく生きることにそれほど弊害がない国である。LGBTだってそれほど極端な差別はない。むしろ、そういう立場の人のメンタルが弱くて、社会はそこまで思ってないのにひとりで悩んでいるケース、もしくは打破するのにそこまで大変でもないのに行動をしないケース、そういうものだと思う。

それはLGBTでなくてもメンヘラの人などいくらでもある事例で、自分が勝手に悩んでいるだけで、社会はそこまで悪くないものである。

そう言えば、わたしが着物を着始めたのはもう16年くらい前の銀座で、初めの頃はそれはもう外に出るのが怖いというか緊張して、罵声でも浴びせられるのではないかと思ったが、社会は全然そんなことはなかった。着付けを習いに来る人はたくさん来てくれたし、わたしから着物は買ってくれたし、飲みにも一緒に行ったし、社会は優しかった。

それはわたしが単に鈍感なだけで感知しなかっただけかもしれないけれど、おそらくわたしにはそうやって生きる信念というか主義というか、それを楽しむ力があったし、何よりも着物への美意識があったからなんともなかったのだろうと思う。

こういうのをメンタルが強いと世間で言うのかは知らないが、自分ではメンタルが強いも弱いも考えたことがない。

だから、日本はすでに十分に自分らしく生きたってどうってことない社会であると思う。

しかし、「自分らしく生きられる社会」を「作ろ」うとするならばそれはちょっと話が違ってくる。

わたしは自分がやりたいことを好き勝手にやったわけでなく、やりたいことをやっただけ。社会をどう作りたいなんて考えちゃいない。

ところがそういう社会を作ろうとする行為は明らかに敵を作る。自分らしく生きさせない何かという仮想敵である。

社会的弱者がそういう主張をして、それを認めるならば、もっと分解すればすべての個々人が自分らしく生きられることを目指すことになる。

「自分らしく生きる」とは自分を否定する制限がない社会であろう。となれば、JGBTらしく生きようとするなら、LGBTをぶっ殺したいという主張も認めなければならない。「自分らしく」という個々の主張を認める社会を作るとはそういうことなのだ。社会的弱者だけの主張を認めてマジョリティの意見は認めないのは構造的におかしい。なぜなら、マジョリティも分解すれば個の集まりであるから。

人間は多面的なもので、性的にはLGBTであっても右翼というのもいるだろう。であれば、LGBTで右翼という自分らしさで生きられる社会はLGBTで左翼という人と政治的一面で対立する。たった一事項だけで自分らしさは他者と衝突してしまうのである。

だから、「自分らしく生きられる社会」を作るというアピールは構造的に矛盾していて、要するにヒューマニズム的な嘘に他ならない。

自分らしく生きるには個なる自己が実存によって生きるしかなく、それは社会を作ることではない、あくまで個としての生き方なのである。

結局のところ個の力しかない。それは社会的弱者であろうと、サラリーマンで日々、上司にいじめられている人も、結婚ができなくて相手がいない人も、自分らしく生きたいのに自分らしさがわからない人も、どんな人も結局は個の力次第なのである。社会をどうこう作ろうなどではなく、まず自分自身が力強くなること。これしかない。そのための努力を怠るから「社会を作る」なんて嘘に騙される。

そう言えば、うちの4歳の愛娘は一人っ子のせいか食べるのが他の子供より遅いようである。だから保育園で給食を食べていると、ひとつ上の子供が、

「早く食べて、早く食べて」

と、急かしてうるさいらしい。

うちの4歳児はそれがちょっと嫌らしい。だからわたしは、

「それだったら、『ほっとけよ、うるさいからあっちいけ!』って言えばいいじゃん」

と、指南した。

するとうちの愛娘はそれを実行したらしく、

「うるさいからあっちいけ!って言ったら、あっちに行っちゃったよ」

と言っていた。

それでとやかく言われず、自分のペースで給食が食べられるようになったとのことである。

社会で生きていくには「自分らしさ」が通じる社会を作ろうと嘘くさいことを言うのではなく、少しの武装をすることだと思う。相手を威嚇できるくらいの武装。相手を破壊するまでいくとちょっと行きすぎる。

自分らしさを守るのは自分であり、そのためには威嚇くらいはできないといけない。丸腰でいるから悩むのである。

そして、その武装にはバックグラウンドがあったほうがいい。ただ乱暴なだけだと自分が返り討ちに遭う。だから勉強をしなくてはいけない。歴史を知っているとか、哲学ができるとか、文学に理解が深いとか、そういうバックグラウンドがあれば説得力が出てくる。それがないのに「自分らしく生きられる社会」なんてものはただの勝手でしかない。

きっとそれが人間としての強さであり、その威嚇があれば結果として自分らしく生きることに苦労がなくなる。

そうやって生きていればそれほど他人から文句は言われない。だから衝突はない。自分らしさを主張し合う混沌状態にもならない。

ムカつくことがあれば、自分の口で言うこと。これに限る。

自分らしく生きられる社会を作るなんて漠然としすぎてて結局何も行動しないだろうし、ヒューマニズムっぽい言い回しが嫌らしいのである。

人が飯食ってる時にとやかくうるさい奴がいるならば、

「うるさいからあっちいけ!」

だよ。

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