結月でございます。
小さな子供が真っ白な画用紙を目の前にして絵を描き始める。そんな光景を見る。
それには自分の中にも記憶があって、真っ白な画用紙に何かを描き始める。
真っ白なものは他にもあって、真っ白な原稿用紙、真っ白なWordの画面、そういうものも同じで、真っ白なものに何かを書き始める。
真っ白なものに何かを描け、書け、と言われると戸惑ってしまう人もいる。
学校の美術の授業、作文の宿題、そういったものが苦手だと、何を描けばいいのか、何を書けばいいのか朦朧となり、考えれば考えるほど頭が空白になる。
逆に真っ白なものを見ると何かを描いてみたくなったり、書いてみたくなったりするタイプの人もいる。
子供の頃は真っ白な画用紙にクレヨンを擦り付けて、絵にもなっていないようなものを描く。
うちの愛娘が3歳だった頃、真っ白な紙に水色のクーピーペンでただひたすらに描きなぐり、
「うみ、うみだよ」
と言っていた。
それは今も飾ってあるのだけれど、海と言われれば海に見えてくるものである。
そして、塗り絵というのもある。
これはあらかじめキャラクターなどが線で描かれていて、そこに好きな色を塗る。だから、真っ白からのスタートではない。色を塗ればいいのだから、無から始める絵よりは考える手間が少なく、楽だと言える。
わたしは真っ白が苦手ではなく、だからこうして毎日ブログだって書けて、ブログの画面もWordのように最初は真っ白なのだけれど、そこに文字をタイプすることでもうかれこれ十数年は何かしらを綴っている。
それは苦ではない。というより書いてないとムズムズしてしまって心地良くない。
とりわけ誰かに読ませようという気持ちもなく、それで金儲けしようと思ってもいないから、情報としては大して価値のないものを書くのであって、だから続けられるとも言える。
書かなければならない、つまり真っ白を字で埋めなければならないと思うとそれは苦行になって続かないものである。
絵は子供の頃に音楽を始める前はよく描いていて、だから今はもうすっかり描かないとはいえ、絵は好きである。
実は最近、なんだか絵が描きたくて公演が終わったらキャンバスでも買って、絵を描こうかと思ったりもする。
とにかく、真っ白なものがあると何かしたくなるのである。
音楽に関しては自分が演奏することにはほとんど興味がない。興味がないから楽器は人に教えるレッスンしかしていない。
演奏は塗り絵みたいなところがあって、楽譜がまずある。真っ白ではなく、線が描かれた塗り絵と同じように。
モーツァルトやベートーヴェンが書いた譜面は絶対であるから、それを勝手に弄るなんてことはできやしない。
演奏はそれを徹底的に解読したりして、自分なりの音を築き上げる作業で、再現芸術とも言える。
と、そんな単純な話でないと演奏家からは言われそうだけれど、真っ白がスタートでないことは確かである。
音楽において真っ白をスタートにするのは作曲家であり、彼らは音符がひとつも書かれていない五線譜を目の前にする。
ところが真っ白をスタートにしているのに、できあがったものがオリジナルでない場合も多い。
真っ白な原稿用紙から書き始めたはずなのに例えば村上春樹っぽい小説になっていたり、真っ白な五線譜から書いたものなのになんとなくショスタコーヴィッチっぽいよね、と言われるような曲ができあがったり。
真似るつもりはなく、パクるつもりはなくとも、いつしか影響を受けてしまって、その根っこはリスペクトであったりするけれど、オリジナルなものができていないなんてことがある。
そうなると、ちょっと塗り絵の要素が混ざってしまう。薄っすらと他人の線が見えてくる。
演奏もそうで、何か演奏会に行って、例えばベートーヴェンの交響曲第7番を聴いたとして、
「あれ? なんかカルロス・クライバーっぽいよね」
と、ふと思ったりする。
そうなると、その指揮者は自前で棒を振っているつもりでも、クライバーの塗り絵になっていたりするわけである。
というわけで、どんなジャンルであっても、
「なんじゃこりゃ!!」
という驚愕、
「こんなもん、見たことないわ!!」
という新鮮さ、そういうもので満たされている本当のオリジナリティに大きな価値が置かれる。
既視感が漂うものはその時点でエネルギーを失う。
既視感ゼロなものが真っ白から生まれることがすばらしいのである。
しかし、それは簡単ではない。だから、自己啓発本やビジネス本などでは、
「学ぶは真似ぶ」
なんてダジャレを利かせて、都合よく正当化するわけである。
とはいえ、ビジネスなんかは結果が良ければいいので、真似てであろうが、パクリであろうがそれで収益が出ていればいいのでそれでオッケーというのはよくわかる。つまり、芸術ではないから、要領よくパクるのがよろしい。
工業製品の開発はパクリの応酬だし、最もパクリが力を発揮するのは軍事技術である。
ともかくとして。
パクリではないもの、あらかじめ線が描かれた塗り絵でないもの、つまり正真正銘の真っ白から始めたものは力がある。
つまり、子供が一番力強いわけだ。子供は真っ白な画用紙に水色を描きなぐって海にしてしまうのだから。
そういう子供の心。それは大人になるにつれて衰退していってしまう。与えられたものを上手にこなすことが評価されるようになって、きれいな塗り絵ばかりを仕事にするようになる。
それは見た目は整っているかもしれないけれど、エネルギーは弱い。
芸術も事業も真っ白から始めたものはおもしろいものだ。真っ白を目の前にして興奮できるかどうか。
そういえば、公演をプロデュースするという仕事にとっての真っ白は、お客さんが入る前の誰もいないコンサートホール。
そこにどういう音楽を彩るか。
真っ白からのスタート。そして、演奏者が色彩を放ってくれる。