結月でございます。
例えば、ワクチンを全国民の7割に接種できれば集団免疫が成立するという目標があって、一日あたり何人ワクチン接種できれば6ヶ月で達成できるとか、一日あたり100万人打てる状況であるからあと何日あれば達成できるとか、これは算数くらいの計算なのだけれど、先を想定して進んでいくのがビジネスというもの。
だから、政治というのはビジネスな要素が強い。
こういう現実的なビジネス感覚は給料をもらうだけのサラリーマンではなかなか身に付くものでなく、逆に起業して損益を日々考えることに追われるとすぐにわかるものなのである。
菅政権は安倍政権のような色気はないけれど、政策と実務はそこそこしっかりとしている。やることを割とやっているはずなのに支持率が低い。
それはワクチンにせよ、オリンピックにせよ、ビジネス感覚がないと理解できない部類の話だからで、大衆を引きつけるのは迎合的な色気のほうがいいということ。
つまり、日本の労働人口は9割ほどがサラリーマンであり、要するに実務的なビジネスを体験していない。だから実務をしっかり推し進めていてもそこは理解されず、支持率は上がらない。
なので統治をするのが政治だとするならば、ポピュリズムに走るか、専制政治のどちらかしかない。
ともかく、ビジネスは先を読むものである。
世相を読んで、売上目標や企画の達成など未来に向かって先を読みながら進んでいく。
だからビジネスは合理的であるし、数学的であり、商売というものを仕事への思いで支え、数学的計算で進めていく。
「思い」だけだと現実はうまくいかない。
多くの芸術関連の仕事が得てして金がなく、カツカツであるのは思いだけが強すぎて、現実を推し進める数学がないからである。
しかし、「思い」がないと仕事はつまらない。
数学的な計算だけで、数値の合致を合理的に進めるだけの会計業務などは「思い」が混入してはいけないジャンルであるから、仕事は楽しいものではないだろう。
ともかく、「思い」を金にする仕事であっても、やはり先を読む、先を計算する能力が必要であって、なければうまくいかない。
「思い」だけで成立するのは芸術であり、芸術はゴールを考えない。今まさに描きたいことを描き、完成を目的としない。
絵画にしても完成させてしまえば、それは絵葉書になる。
芸術は完成されていない塗り残しがあるからこそ、解釈が無限に生まれ、ビジネスと違って永く続く。
最初から道筋を決めて進めた作品はつまらないものが多い。
ストーリーテラーが描く娯楽小説は読んでおもしろいけれど、書く前に構成表を作ったりして予定されているからで、実はそれは芸術というよりビジネスに近い。
ビジネスに近い小説であるから売れる。よく計算されているから、わかりやすい。
しかし、純文学が売れないのは、先を読みながら書くものでなく、今まさに書きたいものを書いて、作者自身もどうなるのかわからないような書き方だからビジネスとは離れている。
純文学だったのに、いつしか大衆文学的なものを書くようになる作家がいるが、それはビジネス的に書くことをわかった、もしくは利口さがあったからだろう。
ともかく、計画性がないのが芸術であり、だから難解で、触れる人によって解釈が異なり、要するに答えがない。
そう。ビジネスには答えがある。
ワクチンを国民の7割に打てばコロナは収束する。これも答えだ。
オリンピックは世界の感染者数から見れば日本はかなり低い水準であるから、それ相応のやり方をすれば開催できると主催者のIOCは考え、開催地の日本も今までかけてきた金をお釈迦にする中止には物理的にはできないというのも答え。
従業員一人当たりいくら給料を払わなければならないか、すると月間売上でいくら必要であるか、答えがはじめから出ている。
しかし、芸術には答えがない。
表現する芸術家は今、まさにその瞬間に創作しているから、答えがないまま進んでいる。
芸術は答えがないからいいのである。
ところが不思議なことに、芸術作品に対して答えを押し付けたがる人たちがいる。
批評家などは何かしらの答えを提示することが商売であるから、あることないこと好き勝手なことを言う。
素人もそんな批評家の言葉を鵜呑みにしたり、もしくは自分勝手な答えを決めつけたりして楽しむ。
しかし、そういう行為はビジネスに近い、というより会社の方針に難癖をつけて愚痴る平社員みたいなものだ。
どうも答えがない状況に耐えられないらしい。
わからないものをわからないものとして放置することが不安なのだろう。
そんな不安から、批評家の安っぽい答えを得て安心したりする。解説本が売れるのはそのせいだ。
わたしはビジネスと芸術をはっきりと分けて生きるようにしている。
分けておかないと、ビジネスであることに「思い」でやる過ちを犯すし、答えがない芸術に答えを求める愚かなことをしてしまうから。
今進めている公演だって、進める手続きはビジネスに徹してやっている。先を読みながら進めている。
コロナワクチンの接種が11月下旬にはどれくらいになっているか、首相官邸が発表するワクチン接種数を毎日見ているし、内閣不信任案が否決されて、解散後の総選挙は国会のスケジュールを考えていくと、おそらく10月10日だろうと見ている。
投開票が10月10日であればもちろん自民党が勝ち、第二次菅政権が発足して緊急事態宣言を出すことはないだろうし、それ以前にワクチン接種率を逆算すればおそらくは緊急事態宣言が必要な状態にはなっていないはず。
となれば、現在半分に制限されているホールの収容人数は夏には解除され、そのままいけるだろうと予測して、チケットは収容人数100%で売り出せそうだとか考えている。
それに合わせて、いつくらいに大々的な新聞広告を出そうだとか、答えが出てくる。
オリンピックを開催すべきかすべきでないかなんて微塵たりとも考えない。なぜなら、オリンピックが開催されるのはずっと前から確定していたのであり、単なる自分の意見で開催すべきでないと思っていたところで開催はされるのだから、ビジネスとしては開催するものとしてクールに進めるのが当然だから。
IOCがやると決めていることに日本国民の大半が反対したところでそれが覆ることがない現実があり、ビジネスは意見でないのだから現実という波でいかにサーフィンするかを考える。
しかし、公演の内容、それはモーツァルトの交響曲をやり、レクイエムをやるが、その音楽が一体なんであるか、そこに答えがあるなんてことはこれまた微塵たりとも考えない。
そんなこと考えたってわからないし、わかったつもりでいても違うかもしれないし、モーツァルトはすでに死んでいて本人に訊くこともできないし、もしそこに答えがあったならばモーツァルトの音楽が彼の死後230年経っても演奏されるわけがない。
なんだかよくわからないから演奏され続けているのだから。各々の演奏家が必死に考え、どう演奏すればいいかを模索し、そして演奏し、でも答えが出るわけでないから新たな演奏家が挑戦し、やっぱりわからないから230年も続いている。もし答えがあるならそれでおしまいであって演奏はひとつでいいはずだ。
わからないから楽しい、わからないからやめられない。
音楽はそういうもので、それに公演当日だってどんな演奏になるかもわからない。
「今」という瞬間を積み重ねてきて、行為は連続しているのに答えは出ない。どれだけ多くの演奏家が自分の人生の「今」をかけてモーツァルトを演奏してきたことだろう。
だから、芸術はビジネスとは違うし、ビジネスに芸術的な「思い」を持ち込んではならない。
そして、ビジネスにも芸術にも「意見」は要らない。意見ほどむさ苦しいものはない。
今、コロナに対しても、ワクチンに対しても、オリンピックに対しても、政治に対してもマスコミや個人のSNSにも口うるさい意見が多すぎる。
どれもこれも現実からかけ離れた意見ばかりで、有効性はない。
意見とは内容が浅く、うざったいものだ。
いいビジネスには意見はなく現実に淡々と進み、いい芸術には意見なく奏でられる。
意見があるなら自分が起業しろ。
意見があるなら自分で創り出せ。