結月でございます。
美というものをよく考えるのだけど、今は美にあまり価値が置かれない時代で、美よりは要領とか合理性だとか損得といったものが重視される。
つまり、美は要領、合理性、損得らとは正反対にあるもので、美は要領なんて関係ないし、不合理なものだし、損得の話でするものではない。
だから今の社会では美はあまり語られることはない。
特にコロナで2年ほど美なんて言っていられない状態になっていたから尚更で、とはいえコロナ以前から美ではない時代に突入している。
とはいえ、時代は振り子であり、どちらかに振れるとしばらくして反対側に振れていく。なのでまた美が求められる時代はまたやってくる。
そのためには今の価値観である合理性や要領のよさみたいなものが飽きられる必要がある。
しかし、合理性や要領は悪いものではなく、今なぜ合理性や要領が重視されるかというと、今まで非合理的な理不尽さや要領の悪すぎる慣習が跋扈しすぎてそれによって社会に不満が溜まっていたからである。
やる意味のない会議やわざわざ行かなくていい出張など、そんな無駄なものがあったからコロナをきっかけにリモートワークが普及したわけだし、つまりは今まで要領の悪すぎることをやりすぎていた。
無駄には本当に要らない無駄とあっていい無駄がある。
会議ばかりして仕事をしている気になることは本当の無駄であって、そんなものは要らない。
しかし、美とは意外と無駄なもので、食べられることだけ考えればお皿なんか紙皿やアルミ皿でいい。しかし、それでは色気がなくて、人間は食べられれば済むはずの皿に花の模様を描いてみたりする。
美とは人間に与えるエネルギーとしては大きいものであるけれど、その存在は儚いものである。
儚いがゆえにコロナのような感染症が蔓延すると美は相手にされなくなるし、戦争が起これば美しいものにも平気で砲弾がぶち込まれる。
なぜなら美がなくとも人間は生きようと思えば生きられるからであり、文化大革命で美を徹底的に破壊した経緯がある中国にも人間はたくさんいる。美は撲滅されたが、人間はそれでも生きていた。
コロナ禍はちょっとそれに似た雰囲気があって、最初の頃の緊急事態宣言など外出を自粛され、自粛を間に受けた人は多く本当に自粛して街から人がいなくなった。そんなときに京友禅の美しい着物なんて着て出掛けられないし、美しい音楽を奏でるようなことも憚られた。しかし、美が供給されないことによってわたしたちは死んでいない。
美の存在は儚いもので、脆いものなのである。
美とは人の心に発生するもので、それを生み出す芸術家、それを鑑賞する人、ベクトルは違えど美は人の心に宿る。
美にどっぷりとはまり込むととてつもないエネルギーにはなる。極端なところまでいけば、美のための殺人も成立する。
しかし、やはり美の存在は儚い。
美は力強く根を張るものでない。触れば落ちる花びらのようである。
きっと美は信じられることによって存在できるものなのだろう。
美は幻影であるのかもしれない。