結月でございます。
今日、買った本は東浩紀さんの哲学書。もちろんKindle。iPhoneで読めるから読みやすい上、紙の本より安い。
まずは『観光客の哲学』。
読み始めるとかなりおもしろい。
この本を買った理由は、これから始めたいプロジェクトの参考になりそうなことが書かれてそうだったから。商売やビジネス、そして企画立案などは哲学と関係ないと思われがちだけれど、実はすごく関係していて「今」という時代を分析する能力がないとトンチンカンなことをしてしまうから。
つまり、時代を知って、その上で企画を進め、さらに今後どうなるかを根拠を持って予測することが大事。
と、『観光客の哲学』を読み始めたら、東浩紀さんの過去の本も読んで体系的に理解したほうがいいんじゃないかと思い、一度Kindleを閉じて以下の2冊をダウンロード。
『動物化するポストモダン』は2001年のものだからもう古い。そしてその続編の『ゲーム的リアリズムの誕生』は2007年。
この2冊が出た頃はまだスマホもなかったし、YouTubeだってない。だから書いている内容は既に古いかもしれない。しかし、哲学は体系が大事だから、今を知るには「以前」を知らねばならない。
というわけで『動物化するポストモダン』を今読んでいて、半分くらいまできた。
日本のオタク文化の分析が深く、確かに2000年前後ってそんな雰囲気だったよね、と多少懐かしく思いながら「なるほど」と思う。
もう今やポストモダンでさえ古くて、ポストモダン以降の時代。
ポストモダン以降を決定づけるのはやはりスマホの登場だと思う。そしてYouTube。さらにGoogle。Twitterもか。
これらの登場で時代がガラリと変わった。そして今、新型コロナウイルスの真っ只中で、コロナは世界を変えてしまっている。
哲学的に考えると、新型コロナの登場による世界の変化は人類史上の出来事として間違いなく残る。時代が変わった分岐点として大きな出来事。
その考察はこれから時間をかけてなされるわけで、しかし今、急に現れたウイルスによって長年培ってきたものがわずか数ヶ月で壊滅危機に瀕したりしている。
とにかくすごいことが今リアルに起こっていて、価値観が大地震以上に変わろうとしている。
さて、オタク現象から考えたポストモダンのことをKindleで読んでいると、ふとこんなことが頭によぎった。
「オーケストラって、もう要らないんだろうね」
コロナによってプロオーケストラが経営難に陥っているけれど、実はコロナ以前からプロオーケストラの存在理由はとっくになくなっていて、コロナがそれを急激に早めただけなのではないか。
つまり思ったのは、交響曲というジャンルがなくなったプロセスと同じなんじゃないかってこと。
交響曲は古くはハイドン、そこからモーツァルト、そしてベートーヴェンで確実なものになって、そこからブラームス、ブルックナー、さらにマーラーに繋がる。あとは国民楽派のチャイコフスキーやドボルザークあたり。シベリウスとなると時代的に新しいかな。
ともかく、交響曲はそのあたりまででそれ以降は交響曲はあまり作曲されなくなり、交響曲は時代遅れなものになる。
例外的にショスタコーヴィッチがいるが、それはソ連という閉鎖的な環境で時代が西側とズレていたせいもある。
なぜ交響曲が作曲されなくなったかはいろんな理由があるだろう。ただ単純に考えれば、
「そのスタイルが古くなったから」
と言わざる得ない。
芸術は常に新しい表現を求めるわけで、それは絵画を見ればわかりやすい。セザンヌが以前の絵画をぶっ壊して近代絵画を始めたかと思ったら、今度はピカソが出てくる。いやいや、もっと昔にはルネサンスは中世の宗教絵画をぶっ壊した。
ともかく、交響曲が作曲されなくなった、されたとしてもそれが時代の主役にならず、ピンポイントでしかない。
つまり、それを同じことがオーケストラにも起きていて、時代がオーケストラを求めていない、もっと言えば、あんな大所帯の集団はニーズがないのだ、と思った。
それは近代から70年代にポストモダンが言われるようになって近代的価値観が通じなくなってくるのと同じで、オーケストラは役割を終えていると言っていいかもしれない。
クラシック音楽の弱点は新作がほぼ演奏されないことで、どのコンサートも200年、100年前に作曲されたものを繰り返している。
演奏的な観点で言えば、演奏面では新しさは更新されていて、古くはフルトヴェングラーとカラヤンの音楽は同じ曲でもまるで違う。そうやって今も新しいモーツァルト、新しいベートーヴェンなどは演奏面では生まれている。
しかし、演奏面での差異が一般社会で理解されることはまずなく、一部のクラシックマニアだけのスノッブな楽しみ、さらには演奏家の自己満になっている。
わたし自身は実は交響曲が大好きで、コンサートを企画するなら交響曲をやりたいと思う。
ただそれは趣味や好みの話で、社会的にそれが求められるかというとかなりポイントは低い。
そもそもオーケストラは作曲家が作曲において指定した楽器が必要であるから存在してきた。だから古典の時代から比べると時代を追って巨大化し、マーラーやショスタコーヴィッチとなるととてつもなく大きな編成となる。
つまりは作曲家のニーズの積み重なりで今のようなオーケストラができあがったわけで、となれば過去の曲の再現芸術としての機関だけで社会のニーズからかけ離れたものとなる現実は、すなわち「オーケストラって、もう要らないんだろうね」という結論になってくる。
オーケストラを存続させようとするあまり、無理にその存在意義、例えば子供たちに音楽は必要だと学校に演奏に出かけたりなど、思えば作曲家の曲を音にする機関なはずのオーケストラが本末転倒なことをやってしまう。
社会のほうからはっきりとした要請がない故に自らが存続できなくなり、ボランティア演奏も含めて呼ばれもしないのに音楽を提供しにいく。そうでもしなければ演奏家も自らの存在意義を失ってしまうのだろう。
しかし、そのやり方は収益が上がらない。収益はやはり有料のコンサートであり、ところがそこに集まるお客さんの数が高齢化のため年々減っている。
交響曲という大きな音楽を行うためのコンサートホール。それは2000人は収容できるものだが、収益を上げるだけの集客が既に困難であり、それは固定された施設と経費と社会的ニーズが合っていないことを意味する。
そうなるとクラシックは堅苦しいものじゃないんだ!というアピールのために家族向けや素人向けのチャラいコンサートをしてしまう。ところがそこからは新たな顧客が生まれることはあまりなく、収益にもほぼ関係ない一過性のものだけになる。
しかし、クラシックは堅苦しいものなのである。堅苦しいところが魅力であって、交響曲となれば40分前後はじっと聴いておかねばならないし、マーラーとなれば1時間越えとなる。そしてそこに込められた作曲家のメッセージは決してチャラいものではない。作曲家が頭がおかしくなりそうなまでに考えて生み出した曲なのだから堅苦しいに決まっている。
つまり、クラシック音楽というものはポストモダン以前の価値観、それはわかりやすい近代的な主張、特にベートーヴェン以降はそうなのであって、ところは今はそんな単純な時代ではない。ポストモダンでさえ終わっている時代なのだから。
そんなスマホとYouTubeの時代に近代的価値観で作曲され、近代的価値観で演奏され、近代的価値観で運営されるオーケストラ、そんなスタイルが社会から要請されるはずはなく、一部のマニアの楽しみでしかなくなるのは当然のことだと言える。
いくら過去に作曲された曲が芸術的ですばらしくとも、それらは今の時代とかけ離れた内容であればあまり心には響かない。
音楽を提供する側が人間には音楽が必要だと訴えても、それは内輪だけの逃げ口上でしかない。
とはいえ、人間の根本は変わっちゃいない。だから優れた曲はその根本を捉えているのだから共感できるはずなのである。しかし、オーケストラという規模そのものが時代とズレていて、それを維持するコストも実際のニーズと照らし合わせればまるで成り立っていない。
そして日本にはプロオーケストラが多すぎる。オーケストラ連盟の正会員だけで25のオーケストラ。さらに準会員がある。
需要と供給のバランスがおかしくて、同じ客を取り合っている。
つまり、ニーズ以上のコンサートの供給過多であり、しかもそのやり方は戦後から変わらず、新しいアプローチはない。
コロナ以前に多くのオーケストラは社会から見れば必要でなく、オーケストラの時代は終わっていたのだろう。
演奏はYouTubeでアーカイブがいくらでも見られる。もちろん生演奏ではないにせよ、それで事足りると思う人は多いだろう。そうでなくてもCDでクラシック黄金期の名演奏はいつでも聴ける。もうそれでいいんじゃないか、と思わなくもない。
YouTubeでアーカイブ化された以上、ここまでたくさんのオーケストラは必要がない。コロナでいくつかのオーケストラが解散になったとしても、おそらく社会はそうは困らない。
演奏家には気の毒だけれど、そういう変化はわたしは悪いことだとは思わない。時代とはそうやって変わっていくものなのである。
クラシックという演目が古いままだという世界は変化に適応しにくいのだから、役割を終えたらそれでおしまいなのだろう。
その証拠にコロナがなくてもオーケストラが財政難であるのは日本だけの話ではない。
そうであるなら、やはりもう「要らない」という事実じゃないか。
シンフォニーが廃れたようにオーケストラが廃れるのはおかしいことじゃない。
そんなことをポストモダンでさえ古くなるつつある今、そして新型コロナという歴史的出来事の真っ只中、そんなことを思った。