結月でございます。
今日の晩、5歳の愛娘がダンボールを切って、自家製貯金箱を制作していた。
「早く寝てくんないかな…」
と思いつつもその気配はない。仕方がないのでテレビをつけてみると、
「カンブリア宮殿だ!まだやってたの、この番組!」
と、いつの間にか長寿番組になっていたことを今更に知る。しかし、驚いたのは村上龍がド級に老けていて、その別人ぶりにわたしは村上龍のトークの内容が頭に入らなかった。
村上龍をリアルタイムで見るのは15年ぶりくらいで、昔、村上龍は自分の動画チャンネルでいち早くYouTuberみたいなことをやっていたときである。
その頃のイメージがあったものだから、今日の村上龍にはビビってしまって、滑舌も悪くフガフガした口調で、その驚きは子供の頃の記憶とあまりに違った徹子の部屋の黒柳徹子と同じだった。
入れ歯かな…と思ったが、それはわからない。しかし、顔面全体が垂れ下がっていて、皮下脂肪が多いものだからちょっと老け具合が苛烈すぎた。でも、まだ村上龍は70歳で、今日日、70歳なんてまだ若いけれど、70歳のわりに村上龍が老けすぎていた。
これは運動不足の典型であって、文化系の人にありがちな劣化なのである。
文化系は引きこもって本を読んでるほうが好きというタイプが多い。それはわたしもそうで、ずっとバリバリ文化系できっと今もそうなのかもしれず、運動そのものが苦手で、スポーツなんてやろうと思わないほど嫌いである。
しかし、山登りに目覚めた、といっても年に2度ほどであるが、それをきっかけにちょっとは体を鍛えるようになって、今年初めに買ったエアロバイクはわたしのベストバイで、土日に5歳児につきっきりであるとき以外は、基本的に毎日最低でも30分のエクササイズをしている。
このトレーニングをしておかないと、山登りなんて15分でギブアップな体力のなさで、とてもじゃないが山頂までたどり着けない。
あとは栃木に来てクルマ生活になったせいで、東京のように駅まで歩いたりすることがゼロになったから、極度の運動不足になり、足腰の筋肉が海綿状になったからである。
山登りをやってみよう、つまり奥日光の男体山を眺めるだけでなく登ってみようと思い立ったのは2018年で、ちょうどその頃、わたしに変革が起きていた。
それは2016年のサントリーホールでのコンサート主催によって文化系お花畑思考から脱却していたこと。
文化系だと実務能力が乏しくて、「思い」とか「信念」を大事にしすぎる。要するに実務ができないロマンティストになりがちなのである。でも、大きなコンサートで大きなお金を扱うことで、実務能力と合理性がないとコンサートという興行はできないのだと悟った。
それからは文化系の生ぬるいセンチメンタリズムは自分から駆除するようになった。理想としてのロマンティシズムは必要であっても、それは実務の可能不可能の上に築くようになった。
そうなってきたから、おそらく山登りというそれまでのわたしなら絶対にやらなかったこともやろうとしたのだろう。
山登りはセンチメンタルではできない。「思い」なんかで登れやしない。過酷な現実を見つめて、そのために必要なものを習得し、合理的判断でやらないといけない。
今までずっとガチ文化系で肉体を軽視していたことが一転して、肉体がないと何もできないことがわかった。
村上龍の垂れ下がってしまった顔は、ホテルの引きこもり生活でまったく肉体を使用していない文化系の弛んだ肉体だった。
ところで文化系には左翼が多い。ほとんどが左翼的思考であるようにも思う。それはおそらく文化系で肉体を使っていないと「思い」みたいな情念で満たされてしまって現実を見ないからだろう。だから、左翼的政治主張は現実性がないものばかりで、それでいてその主張を社会で通そうとするからヒステリックで柄が悪い。しかも自分が正しいと信じて疑わないから粘着質。
今のわたしは文化芸術は好きだけれど、文化芸術に携わる人間の運動不足的センチメンタルがものすごく嫌いで、そのお花畑感覚は拒絶してしまう。
やはり小さいながらも事業をしてきて、現実的実務の重要さを理解したからで、実は今日も税理士さんにいろいろ教えてもらって、
「ふむふむ」
と、納得している。
一昔前のわたしなら、税理士さんとやり取りが成立しないほど実務的な知識がなかったし、それだけでなくそういう話にアレルギー反応を起こして話を聞くことさえ苦痛だった。だから頭に入ってこない。
しかし今は、税理士さんの言うことがちゃんと「理解」できるところまでになり、これはわたしの大きな変化であり、今更ながらにわかったことである。それくらいガチ文化系でいると社会の一般的な実務さえもできない未熟児のままなのだ。
生ぬるい理想だけだとその理想を現実にはできない。理想を現実にするには実務能力が必要で、それがあっても理想を現実にするのは困難で、できるだけ近いところで妥協する判断を下す合理性もなければならない。
ひとつだけ言ってしまうと、ウクライナの戦争がおわらないのはゼレンスキーの実務能力のなさも大きな要因であろうと思う。口が達者なだけでは現実は動かない。
さて、顔が老けてあれだけ垂れ込んでしまうというのは、自分の顔という肉体の一部に関心がないからだろう。それは頭だけで生きている証拠で、そんな頭ではいくら考えても現実が乏しく、判断を誤ってしまうし、思いこみだけの信念だけになる。
一方で肉体ばかりに気を取られて、肉体はマッチョであるけど頭は空っぽというのもまずい。
年齢の割には綺麗な顔の美魔女でも話をすると内容が薄っぺらでアホというのも魅力がない。
だから、頭と肉体の両方が重要で、そのバランスがいいのがいい。これは古代ギリシアのアリストテレスの考えに近いかもしれない。
そういうわたしも栃木に来て人とほとんど会わない生活になって、お肌ケアをまったくしなくなり、顔面がひどくなった。さすがにこのままではいけないと、今月、久しぶりに資生堂に行き、リバイタル一式を買い、毎日ケアをするようになった。
すると効果は出てきて、肌に張りと柔らかさが見られるようになり、明らかに先月までとは異なる。
しかし、3年間のクルマ生活による紫外線浴びまくりの代償は大きく、シミは異常に増えた。
だから、今はちょっとしたドライブでも油断せず、日焼け止めスプレーを塗りたくっているわけで、それは助手席に座る5歳児にも塗りたくっている。
やはり顔をちゃんとしないといい仕事ができない。健康的に仕事ができない。
あとはエアロバイクのトレーニングで足腰も復活してきて、立ち上がる時も階段の上り下りも普通にできるようになった。以前はそれも難儀するくらい筋力が落ちていた。
しかし、今日、5歳の愛娘がわたしのiPhoneの写真を見ていて、7年くらい前のわたしの写真を見せられ、いくらリバイタルで復調してきたとはいえ、7年前はこんなにきれいだったのかと今を落ち込む。
あの頃はクレ・ド・ポー ボーテに連日通うほどだったし、着物を毎日来てルックス重視で銀座という華やかな場所で生きていた。
やはり今とはまるで緊張感も違う。銀座と栃木。この落差。今はいくら頑張っても銀座時代の顔は手に入れることができない。
それに年齢による劣化もあるし、新陳代謝は明らかに低下している。
とはいえ、肉体の重要さに気づいたわたしは70歳になっても顔面が垂れ下がることはないだろう。もしそうなってきたら、すかさず美容クリニックに駆け込む。
ところで三島由紀夫は小説家でありながらボディビルで軟弱だった肉体を改造した。そして肉体的軟弱さや老化による肉体美の喪失を拒絶した。
わたしはその気持ちがよくわかる。ボディビルほどはできないエアロバイクだけれど、肉体を重視しない文化系の軟弱さ、というか考えの甘さ、それは嫌悪したくなる。
三島由紀夫はそれが行きすぎて、自分の肉体が加齢によって醜くなることが許せなかったのだろう。だから肉体美があるうちに自らその肉体を抹殺した。
バランスが何よりも大事なのである。肉体と精神のバランス。これが偏ると暴走してしまう。
そしてもうひとつ大事なのは行動力。口先だけの文化人にはうんざりする。理想を語ることと行動はセットでないといけない。
実行能力。それは強靭な精神による理想と足腰の強い実務能力が融合したものに違いない。