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やることやったらケセラセラ

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結月でございます。

連日のコロナ騒ぎを眺めていて思うことは、

「ケ・セラ・セラだよね」

ってこと。

「なるようになるさ」とまあ、古い流行歌で、なるようになる。

コロナに関係なく、人間の生はなるようにしかならない。そしてなるようになる。

何かの目標に向かって懸命に努力して、やれることは全部やって、そしたらケセラセラ。なるようになる。それが達成しようがしまいが、結果はひとつ。なるようにしかならない。

何かの目標に向かって手抜きをし、努力を怠るとなるようにしかならない。そこにはなるようになる可能性もなく、なるようにしかならない。

この二つはまるで真逆の結果。

とにかくやれること、今やれること、それらを懸命にやる。後になったらもっといいやり方があったと悔やむことがあるかもしれないが、それは後にならないと見えてこないもので、今まさにこの瞬間、その刹那の積み重ねに生きている人間は今見えることしか見えない。

今見えることの中でやれることを懸命にやる。

で、コロナに関して言えば、早い話がワクチンを打つしか手立てはなくて、今さら自粛しろというのも通じないし、通じたとしてもワクチンしかない。

そんなワクチンも今予約を取っても接種が1ヶ月先だったりする混雑ぶりで、そうなるとなるようにしかならない。

まあ、せいぜいその間は明らかに感染するような行為は避けるとかできることはそれくらい。それで感染したらしょーがない。

医療逼迫と毎度のように騒がれるのもそれは病床を増やせない理由やしがらみなどがあるに違いなく、政府は大きな予算を出してもそれが消化されず余っているということで、それはつまり政府のせいではなく行政が怠慢でやることをやらなかったのか、できなかったのか、とにかく予算は使われぬまま残っている。

方法論としてはなんとかできる術があるとしても、現実は多くの人間の集まりで、縦社会があり、横社会があり、利権があり、しがらみがあり、個々の欲望があり、個々の都合があり、組織の都合なんかもあったりして要するに達成できない。

兎にも角にも、ワクチン接種を進めるしか感染を抑える方法は現実的にはないわけで、それも一足飛びにはいかず、じわじわであるからなるようにしかならない。

だから、この世は机上空論で理想的方法があったとしても、その通りには物事を動かせないわけだ。

尾身先生がいくら専門的知識から訴えても、それは専門知識という机上空論になってしまって、多くの人間が行動様式を変える心には響いていない。そもそも人間ひとりでさえ、言った通りにさせるのは難しい。

とにかく、世の中は理想的方法から乖離してうまくいかない。

それをまあ「不条理」と言ったりする。

ちなみにそんな不条理に屈することなく、不条理に反抗し続けることを説いたのはアルベール・カミュ。

不条理というか理不尽というか、そんなものが無数に混ざり合ったこの世の中で、やれることをやってケセラセラ。わたしはコロナに関係なくそれしかないと思っている。

コロナであれば、ワクチンを打つ。最寄りの病院で予約が取れないのであれば、できる限り電話をかけまくる。リストにある病院、接種会場、隅から隅まで電話する。

そこまでやったら現実が見えてくる。なるほど、これが現実なんだなとわかる。そうすると妥協点というか、現実の中でも最善が見えてくる。すると納得してそれを選べる。

そして、あとはケセラセラ。

だってやることやったんだから、やることがない。ケセラセラで待つ。

でもさ、そういうのってビジネスとか、企画を実現させたりすることでは当たり前のことで、コロナだからって改めて驚くようなことでない。

行き止まりまでやることをやってみる。そしたらどこが行き止まりで、これ以上は無理だなとわかると現実の中のベストがわかるから。

ただよろしくないのは、やることやらないで文句を垂れたり、やることをやらないでなるようにしかならない結果に落ちぶれること。

ワクチンが開発されて存在するのにデマを信じて打たないとか、やることやらないで感染しましたというのは褒められることじゃない。

ワクチンを打てば回避できる問題を認めないで、反ワクチンのデタラメに埋没して感染して、それで病床を占領し、脳梗塞や熱中症などなど普段の救急医療の枠を潰してしまうというのは遠因的に殺人であるとも言える。

だから、やることをやらないケセラセラは迷惑な話で、本当のところは国家が問答無用で接種を義務化するのがいい。

個人の知性の優劣に判断を委ねるのは社会に不利益をもたらす。それが感染症というものだから。

というのは、古代ギリシアのプラトンの国家論的な考え方なのだけれど。

ともかく、やれることをやる。やれることがないくらいにやったらケセラセラ。

そうやっておくと、最悪な結果にはあまり陥らない。

そして、たとえ結果がイマイチなものであっても、やれることをやっているといつしか自分がパワーアップしているもので、それをやることでその通過点でいろんな知識や経験が身についている。

ケセラセラと言って悠々としていられるのが一番の高み。

ケセラセラは投げやりな言葉じゃない。怠慢に使う言葉じゃないんだよね。

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