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コロナは震災の時のような絶望はないけれど…

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結月です。

オミクロンの蔓延でクラシックコンサートも公演が中止になったりしているようで、それは演劇界や芸能界も同じようなバタバタぶり。

多くの人が携わってやるクリエイティヴなものは一人でも欠けるとたちまちそれが回らなくなるもので、コロナというのは嫌らしいものである。

YouTubeでどういうわけか東日本大震災の津波の動画をたくさん見てしまって、あの頃を思い出す。

原発が爆発して、放射能が舞い降りてくるのではという不安や電力不足で銀座の街が真っ暗になって、商売どころではなかった。

銀座の端にある肉のハナマサという業者向けスーパーに買い物へ行くと、店内は薄暗く、品薄で、BGMの音楽はなくなり、原発の情報を伝えるAMがずっと流れていて不吉であった。

東京は津波のような直接的な被害はなかったけれど、震災後はしばらく「絶望的」な雰囲気が漂っていて、仕事どころではなかった。

音楽や着物と言った平和産業をやっているものだから、原発が爆発して、余震が何度も訪れ、東北は津波で大勢の死者が出ていて、その数も数えようがないという状態だと「美しさ」といったものは求められない。

そんな「絶望的」なあの頃と比べれば、コロナ禍はマシなようにも思えた。

なぜなら、緊急事態宣言が出ても飲食店が自粛で酒が飲めないとか、地震に比べれば呑気な不満を言っているわけだし、ワクチンも開発され、あとはそれを接種するかどうかという問題、さらに政府がそれを供給できる能力があるかどうかという問題であり、いつ来るかわからない大きな余震のようにコントロールできない絶望感はそこにないから。

ただ、病院は押し寄せる患者の治療や対応に「絶望的」な気分になっているに違いない。

しかし、やはり震災の絶望とは異なるものであろう。

コロナは感染したくなければ家に閉じこもり、部屋から一歩も出なければいい。それをやるかどうかはあれど、やろうと思えばできる。

震災の絶望には「哀しさ」があって、予告もなく津波に流された人のことを想うからであろうか。

津波はコロナウイルスのように事前にワクチン接種で防げるようなものでなく、あまりにも唐突だった。

3.11があって、いつくらいから社会が元に戻っていったかあまり憶えていない。それはじわじわとした回復であったから、いつからと具体的に示すことができないからだろう。

さて、コロナ禍は震災と違って、なんとなくの気持ち悪さがあって、感染者がどこかにいるのではないかと人間不信にもなる。

わたしは5歳の愛娘を連れて宇都宮の巨大ショッピングモールにあるフードコートでちゃんぽんを食べたりするが、オミクロンの感染力を考えるとしばらくは行かないほうがいいとこんなわたしでさえ思う。

それだけたくさんの人が集まって、各々が食事をしているからで、さすがにあれは感染もあるなと感じるのである。

テーブルがアクリル板で仕切られていて、それが腕に当たるものだから大変食べにくいのだけれど、あのアクリル板に効果があるとも思えず、あんなものを設置してしまうことが愚かさに見えて居心地が悪い。

昨年のデルタのときはシッピングモールの敷地内にある屋外の公園が閉鎖になっていて子供が遊べなかったが、フードコートは大勢の人が食事をしていてそこが閉鎖されずに外の公園が駄目なことにこれまた愚かさを感じてなんだか嫌になった。

しかし、オミクロンが軽症であると言われながらも、インフルエンザの症状も医学的には「軽症」であり、インフルエンザの苦しみを思い出すとオミクロンが軽症で済んだとしても願わくば勘弁してほしい。

それにうちには5歳の女の子もいるし、わたしが寝込んでいる暇はない。

とはいえ、長く続くコロナ禍に社会が鬱憤を溜めているのがよくわかる。だからこそ、コロナは風邪だと言う主張も出てくる。

フランスやイギリスはオミクロン容認路線であるから、感染はあってもそういう鬱憤はないだろう。

それを割り切れないところが日本人の国民性で、慎重すぎるし、こうだと決める責任を負うことを嫌う体質は日本代表の岸田首相がザ・ニッポン人を象徴していて、いわばムラ的なのである。

リーダーが路線を決めないから、巷ではコロナ対応の床屋談義が始まってしまい、結論を決められる権限のない人たちが結論が出ない談義に明け暮れている。

しかし、これも東日本大震災の頃、銀座の街が真っ暗になって、真っ暗な銀座通りを毎日歩いていた頃とは違うもので、床屋談義に世間が盛り上がるなんて平和なのかもしれない。

思えば、震災の時は「絆」という言葉がよく使われた。いい意味で、日本国民が頑張ろうと思えた共同体験だったのかもしれない。

ところがコロナは絆ではなく、ディスタンスである。人と会うな、人と酒を飲むな、人と飯を食うな、感染したら出社するな、隔離せよ。絆の真逆である。

震災は哀しさの先に希望があったが、コロナはどうも人と人とが離れていくようで、コロナ禍が本当に終焉しても人と人とは近づきあえるのだろうか?

飛沫が可視化されてしまった後では、ウイルスを含有していなくとも人は人を避けるのではないか。

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