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「信じています」という表現が嘘くさい理由

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結月でございます。

いつの頃からか、「〜だと信じています」という表現が日本語に現れた。おそらく英語の直訳からの影響だと思う。

「オリンピックの開催を信じています」

だとか、一方で、

「オリンピックが開催されないことを信じています」

だとか、

「いつかコロナ禍が終わることを信じています」

などなど。

大きなテーマが対象になるときもあれば、個人レベルでもあって、

「君はできる人間だと信じている」

なんて言うこともある。

「信じる」には客観的な確証がなく、一方的にその個人がそう願っているニュアンスが強く、要するに確証を得られない願いを表現するようだ。

要は身勝手なことを言っているだけなのにちょっとだけカッコよく聞こえるのがこの表現の魔力であり、同時にいやらしいところで、「信じる」を使うことで自分が先輩的にほんの少し偉くなり、さらにそれが成し遂げられなくとも信じていただけだから責任も逃れることもでき、いやらしさはそこから来るものだろう。

これはハリウッド映画のセリフのようであり、日本人が真似して使うとやっぱり嘘くさい。

「信じる」のだから、その裏側には「疑わしさ」があるわけで、そこの判断がビミョーであるから自信がない。そしてそうなってほしいという我欲もある。だから「信じ」ることにする。

とまあ、そういうわけだ。

なので、わたしとしては「信じています」なんて遠回しな言葉を使う人間のことはあまり信じていなくて、それなら、

「オリンピック、マジうぜえ」

とか、

「オリンピックはコロナに関係なくやれよ」

と言うほうが好き。

世間的にはズバリ言えないから、「〜であると信じてる」と言う。

それでいて、もしその通りにならなかったら自分が裏切られたのだと言い訳どころか攻撃材料にしてしまう姑息さ。と同時に、

「残念だったね…」

と同情も期待できるあざとさ。

しかしながら、社会には信用はある程度あったほうがいい。それは社会的なコスパがいいから。

日本では契約書をちゃんと読まなくてもちゃんとしていることが多いので、細かいことをとやかくやり合う必要がない。

待ち合わせの時間だってお互いが相手が時間にはちゃんとしていると信用し合っていれば、相手がちゃんと来るかどうか心配する必要もない。

ところが社会に信用が成り立ってないと、トラブルを回避するために事細かな契約書やらペナルティを設けなくてはならず、面倒で仕方がない。

チームだってチームメイト間で信頼関係が成り立っていると成績がいいもので、それはスポーツチームでも企業のチームでも同じこと。

しかしながら、そうしたチームでの信じる気持ちは確証があるもので、あいつならこの場面で最低でも犠牲フライは打てるだとか、実力から換算した確証がある。

企業でもあいつに任せれば先方との交渉をうまくまとめてくれるという信頼は、その人の実績から確証できるものなのである。

しかし、先に述べた「オリンピックの開催を信じている」的なものは実に嘘くさい。

対象が人間でなく、漠然とした社会であったり、イベントであったりすると複合的な要因が絡み合っていて一筋縄でいかないから。

典型的なのは政治であって、自民党嫌いな左派が「次の選挙で自民が大敗することを信じている」なんて言ってもまるで説得力がない。

それは支持層を統計的に見ればはっきりしているからで、その信じる気持ちは単なる身勝手な「思い」でしかない。

こうなってくると、神社にお参りに行くのと似たようなことになってきて、

「◯◯大学に合格できますように!」

と、自分の実力とは関係ない願いになる。

なので、「〜でだと信じています」と言われると、どうも神社の絵馬みたいなものを感じてしまって、と同時にそこに社会性を匂わせていたりされると、

「キモっ!」

と、わたしなんかは思う。

なので、わたし個人は「〜だと信じています」なんていう表現は基本的に使わない。

もし山登りなんかで、体力レベルが低すぎるわたしが一緒に登山する人から、

「頂上まで登り切れることを信じています」

なんて言われたら困惑する。

「いやいや、信じるとか、そういう問題じゃねーし!」

となるから、わたし自身はそんないい加減な言葉、正確に言えば自分の欲望を相手に押し付けることをカッコよく正当化するような言葉は使わない。

「信じている」なんて、あんたは頑張ったらできる人だからね!みたいな押し付けがあって、その言葉を使って酔いしれるのは自分だけという好都合。

駄目なものは駄目だし、できるかどうか定かでないことへの表現は「わからない」が正解であり、勝手に信じるなってこと。

しかし、信じることで自分の不安を少しでも解消したいという気持ちは宗教であり、エセスピリチュアルでもある。

そう考えると、信じる行為はそんなにカッコいいものじゃないかもしれない。

そんな暇があったら、自分の実力を高めるために切磋琢磨するほうがよろしく、そして本当に自分を信じられる自信を身につけるのがいい。

社会にある漠然としたものを一方的に信じたって、結果が信じた通りにならなかったら人間はひねくれるものだから。

裏切られただとか、あの判断があり得ないとか、そういうことをネチネチを愚痴ってしまう。

他人を疑え、社会を疑えというわけではないけれど、結局は人間は自分のことしかできないのだから、だったら自分ことをやっとけ、という話なのです。

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