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世界というものは認知できない。

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結月でございます。

今、一番イケてると言われている哲学者マルクス・ガブリエルの著書を読んだりして、なるほど新しいなと思ったり、西洋哲学としては新鮮でも、仏教的には普通だよねなんて思ったりもする。

わたしは研究者でないから具体的なことは読むとサラッと忘れてしまい、その内容をきっちりと語ることは向いていないのだけれど、要は読んだ内容をすぐに咀嚼して、消化してしまうから読んだ内容の輪郭がなくなってしまって体のどこかに吸収されて形がなくなるという具合。

だから、いろんな本を読み重ねることで自分というものはアップデートされていて、変化している。同じ人間であるのに今の自分は昨日の自分とは少し違っている。その少しが堆積して、いつしか大きな変化になっている。

ところでマルクス・ガブリエルの新しい実在論を考えても、この世界というものはどうも認知できない。

自分の視野、自分の視点から見える世界はごく一部のものであるし、おそろしく多面的である世界のすべてを把握することはできない。できるとすれば人間より遥かな高次な存在、例えば「神」であったりすれば原理的にはできることになる。

そんな大袈裟なことを持ち出さなくとも、Twitterなるものはすでにひとりの人間には把握できない世界となり得ていて、わたしはTwitterを興味深く眺めている。

個人的にはTwitterができたくらいにいろいろつぶやいていた時期があるが、何を投稿していたか自分でも記憶していないし、見返すこともしない。

きっとその頃のわたしは今から見るとまるで別人であるかのようで、つまりそれくらい自分は変化したわけで、過去の投稿を読んだ人がわたしという人間を規定されても困るな、なんて思う。

と、個人的にはTwitterの投稿がアホらしくなって、というのは字数制限から格言的になりやすいし、ネガティヴな批判的に陥りやすく、さらにちょっとした思いつきも投稿しないと気が済まない中毒症状も感じられ、やればやるほど自分が悪質な人間になるような感覚があったから比較的早くやめた。

でも、眺めることは今でもやっていて、他人のTweetを見ながら、くだらない言い争いになっているのを冷ややかな気持ちになったりしつつ、それでもTwitterは眺めている。

それはなぜかというと、自分とはまるで異なった生き方、考え方をしている人が大勢いることが見られるからで、その多くは自我の発散であるのだけれど、自分とは異なる人間を眺めるのがおもしろいと思っている。

そうなるとますます相対的な価値観になり、

「まあ、人それぞれだよね」

なんていう気力のない構造主義みたいな気持ちにもなるのだけれど、世界のすべては見ることができないという事実を感じられることを楽しんでいる。

つまり、わたしがTwitterで眺めているものも世界のほんの一部にすぎず、どうやったって検索しないであろうジャンルがその向こうにはあるはずで、でもそこに到達することはできない。

なぜなら、世界すべてに興味を持つことが原理的に不可能であるし、人間の視野とはトイレットペーパーの芯を望遠鏡のようにして覗く程度しかない。

さらにTwitterというのは文字数のせいか、トイレットペーパーの芯どころでなく、もっと細い管から景色を覗くくらい視野が狭くなるらしく、どのTweetを見てもことごとく視野が狭い。

例えば、オリンピック開催を反対だった人のTweetはひたすらその話題だけで、引用するウェブの記事もそこに同調する内容で、オリンピック開催に賛成である人の気持ちや考えを見る気すらない。

また、オリンピックを開催するための膨大な仕事やお金のやり取り、そうした現実的なところが完全に欠落していて、理念だけでオリンピックを中止すべきなんてことをつぶやいていたりする。

これを人の人体を世界として考えると、炭水化物を摂りすぎると糖尿病になるから炭水化物は摂取すべきではない、というような極論になっていく。

炭水化物の摂取が人体の臓器に影響を及ぼすことは事実であったとしても、それは世界全体の話ではなく、一部の話にすぎない。

炭水化物も摂取することは人体全体に必要とされることもあるのに、すべて全否定という極論。

Twitterはそういう極論になりやすいツールであり、人間の頭脳が生み出す考えを単純化させる。

そうした個々の単純な考えが、無数のジャンル、無数の意見となって入り乱れていて、それが世界を形成している。

しかし、すべてのTweetをリアルタイムですべて見ることはできないのだから、世界の全体は哲学的に考えても見ることはできない。

さらに人間は自分が見たいものしか見ないし、見たくないものは避ける傾向があるからより一層、視野は狭くなる。

ところでマルクス・ガブリエルによれば、事物とは意味の「場」がなければ存在しないということで、それはなるほどと思った。

例えば、扇風機なるものは部屋という「場」がないと存在はしない。「場」がないのに扇風機だけが存在し得ることはあり得ない。

個なる人間も小さい「場」であれば家族、家庭環境というところに存在し、それが地域になったり、会社になったり、社会、さらに国家と広がっていく。

地球は天の川銀河という「場」にあり、天の川銀河は宇宙という「場」の一部である。「場」があることによってはじめて存在は定義される。

すると膨張し続けている宇宙は有限であり、宇宙でさえそれを包括する「場」があるはずで、そうなるとちょっと気が遠くなってしまって理解を超えてくる。

物理的理解を超えるからこそ「神」という概念が出てくるのであり、宇宙を超える高次元の「場」があるはずだと思うのは間違いではない。

量子学で考えれば、3次元のこの立体世界も量子の世界にいけば12次元あってもおかしくない。

それは1次元に見える「線」が実はその中はパイプ状である3次元で、さらにそこに小さな虫が歩いているとなると世界は一気に高次元になる。

こうしたことは人間の考え、主張などなど各々が待ち合わせる想念みたいなものとして考え、それぞれが一つの次元であるとするならば、Twitterにある無数の想念はサイバー空間の中で多次元になっている。

だからこそ、Twitterというひとつの世界を把握することは不可能であり、せいぜい自分の主義主張と同じであるか、反対であるかというプラスとマイナスくらいの差異しか認知できない。

となると、何が起こるか? それは絶望であり、考えることの無意味さを知る無気力。

では、そんな絶望、そんな無気力に到達してしまった人間はどうやって生きていけばいいか?

これは大変難しい問題であり、わたしもよくわからない。

虚無に陥るようなもので、哲学的絶望の中にいることに比べれば、ワクチン陰謀論を信じたり、オリンピックは中止すべきだとか、そういう単純な主義主張を信じてTweetしているほうが生きやすいとも言える。

人種瀬別も然り、ネトウヨもパヨクも次元の数の低さでいることは実は快楽なのであり、多次元を把握しようとする努力もいらず、単純な次元だけが大きく目の前に見ることができる安心感、それゆえに高次元へ働きかける意識も生まれないことが暴論の気持ちよさを生み出している。

だからこそTwitterという主義主張が単純化しやすいメディアは次元の数が低い投稿がほとんどになるのである。

そして結局のところ、世界は認知できない。

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