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多様性という嘘臭さ

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結月でございます。

今朝、Eテレの子供番組「みいつけた!」を見ていたら、コッシーとスイちゃんが三つあるグラスにオレンジジュースを注ぐ。すると最後の三つ目が少し足りなくて、ジュースが少ない。そこでスイちゃんは氷を入れて嵩上げし、三つともジュースの水位は同じにする。

そこにサボさんがやってきて、そのジュースを飲むとあっという間に飲み終えてしまい、

「これ、少なくない? しかも薄い!」

と言う。

こういうことって社会の中では結構行われているんじゃないかって思った。水増しもそうだし、グラスのジュースが見た目が全部揃っているということを正解にしちゃうようなこと。

例えば、役所なんかありそうで、何かを行うとき、前例にあるかないかを判断基準にして、やるべきことを無視していかに前例に反しないように治めるかを考えたりすること。

やらなくちゃいけないこと、その達成が大事であるのに、なぜかその結果には関係のない判断基準が重要視されて、大事な中身が疎かになって、でも体裁だけは整っているみたいな。

一般企業でも報告書を作成するのに一日の大半を費やし、売上を高めるなどの肝心な仕事を勤務時間中にしていないというのも同じでしょう。報告書を作ることが仕事になってしまっている状況は、ジュースが足りないグラスをどうすれば嵩上げして見た目を揃えるかに頑張ることに似ている。

大きなところではスポーツイベントの代表者が女性蔑視と言われる発言をしてそこに非難が集中し、役員の女性比率を高めようとか、とにかく女性を代表にして世界基準に見せようとするのも典型的な例と言える。

個人間でのやり取りでもありそうで、知的水準や常識認知のレベルが異なるひと同士が話すと、大事な論点に集中して話し合うことができない。どうでもいいようなことを論点違いで主張されたりして、話がメチャクチャになったりして、こういうケースではまともな認識を持っているひとが疲弊してしまう。

とまあ、大事なことは何か?ということが無視されて、そこは違うよね?というところが議論の対象になってしまう。

差別なんかもどーでもいいことが論点になって、つまり論拠に乏しいところが重要視されたりするから、差別される側は、

「そんなこと言われても…」

となってしまう。

また同時に差別をなくそうと「多様性」なるキーワードを振りかざすことも本末転倒になることが多く、中身を見ないで見た目の肌の色とか、男か女かだとか、本質と異なるところに価値を見出してしまう。

だから、多様性の理解もまだまだ発展途上で、女にやたらと優しいホストみたいなところが左翼的な立場では多かったりして、貧困にもいろんな原因があるのに貧困をひとまとめにして同情し、会社や政府に無理な要求をしてしまったりする。

つまり、今の多様性の話題は不遇の立場を性別や国籍で一括りにして、それらを中身に関係なく活躍させろという主張があるようで、その一括り的な考えは実は多様性ではなく、性差別と同じ理屈に陥っていることに多様性の主張が正しいと思い込むことによって気づいていないという皮肉。なぜなら多様性を主張することで多様性でない画一的な集団を作るから。貧困という枠組み、女性という枠組み、それらは得てして枠組みで語られる多様性の主張、つまり数は多いけれど、社会的立場で弱いからそれを強くしようという立場で、そうなるとそれぞれの枠組みが対立するだけで多様化とは言えない。

そもそもこの世界は多様なもので、この日本だって多様。

民族的には日本は日本人で形成される国家であるけれど、そこには47都道府県があり、青森と福岡のひとは生活習慣も方言も違うし、同じ関西圏でも京都と大阪はまるで違っている。

もっと細分化すれば、大阪の北と南では気質が違う。

小さな日本ですらそうなのだから、もっと大きな国だと同じ国でも地域差は大きい。

つまり、人間ひとりひとりが同じ人間でないわけで、同じ出身地、同じ学校、その程度のことで「同じ」と共有しているだけでしかない。それが枠組みということになる。

男と女は大変大きな枠組みで、基本的には二つしかない。

血液型も大きい枠組み。それは4つだけ。

そうなると血液型で性格を判断したり、星座で運気を考えたりするのはあまりにも大雑把すぎる。

しかし、そんな占いがあるのも人間はどこかで自分を他者と違う存在として思いたいところがあって、同時に他者と同じものを求めているのかもしれない。

その二つの思いが様々な方向に向けられ錯綜する。

出身校が同じことは望むけれど、部活が違えば同調しなかったり、ナショナリズムに酔う右翼は日本という大きな枠組みには多様性を認めないが、同じ日本国籍なのに女は認めないみたいな非論理的なところがある。犬は好きだけど、チワワは嫌いなんて人もいる。

一体、人間は自分と同じ他者が欲しいのか、自分と異なる他者が欲しいのか、どちらなのだろう?

それはどちらかに決められない身勝手さがあって、要するにいい加減なわけだ。

いい加減とはすなわち「多様性」であり、一つに特定できやしないグラデーション。しかもそのグラデーションは絶えず揺れ動いていて一定ではない。

差はあるようでなく、ないようである。

人間そのものが同一でなく、それでいて各々が枠組みに所属したがっている。この二律背反。

そんな二律背反が文化を生み出し、この世をおもしろくするのであるけれど、ビジネスや政治のシーンで何かを決めなければならないときにどーでもいいようなことが論点になって大事な結果が得られないのは馬鹿らしい。

そういうシーンでは、

「白い猫でも黒い猫でも、鼠を獲るのがいい猫だ」

と考えなければね。

白い猫が多いから、黒い猫を増やさなければならないというのはおかしいのですよ。

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