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多様性は多分うまくいかない。

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結月でございます。

「多様性」を受け入れようとか、ダイバーシティだとかそういうことが言われるのは、日本があまりにも閉鎖的だったからで、アメリカとか国が地続きであるヨーロッパではいろんな民族がいるのが当たり前なところと比べると、日本で言われる「多様性」はまだ幼いって気がする。

どこかそれがトレンドになったところがあって、LGBTに無理に理解を示そうとか、共感をしようとしてみたり、なんだか偽善的っていうか、そういう姿勢がむしろキモいんだよね、なんて思ってしまう。

本心では好きでないものを受け入れようとすると、やっぱりぎこちなくて嘘臭くなる。

とまあ、多様性がトレンドであるのだけれど、確かにいろんな立場やいろんな出生の意見を取り入れる柔軟さは必要で、それがないと井の中の蛙状態になってしまう。

グローバル企業なんて文字通り会社の国籍があってないようなもので、それは会社自体が多様性であるから、グローバルになり得る。

日本企業が弱いのは、意思決定などすべてが日本ルールで、日本人にしか通用しないことをやっちゃっているからだろうけれど、だからといってこれから多様性が成功する条件になるかというとビミョーなところだと思う。

多様性がいいように発揮できるのは、かなり知性が高く、優秀な人たちが集まって、よく見れば国籍バラバラだよねというパターン。頭が良くて、グローバルな教育を受けてきたわけだから、そりゃ、国籍関係なくやっていける。

ところが知性が低く、知識も乏しくて、学歴もないような多様性となるとうまくいかない。どういう状態になるかというと、ハリウッド映画のまとまりの悪いテロリストグループみたいな感じで、各々が自己主張して相手の話を聞かず、俺は俺、私は私でバラバラ。内輪で揉めて、裏切ったり、殴り合ったり、それはもう最悪。

だから多様性が生かされるのはかなり頭が優秀な人たちが集まったときというわけ。

そこを押さえずに、ただ自分と異なる意見を大事に、国籍は関係なく、LGBTも差別なくしようよねとなると、見た目の多様性だけでコミュニケーション能力がないレベルだから全くまとまらない。

そんな無理な多様性でやるなら、ある程度考え方が一致する人だけで集まって閉鎖的にやったほうが仕事しやすいよねとなる。もちろん、この場合は世界戦略などグローバルには向いていないけれど。

ところでアメリカのトランプさんが予想以上に支持があり、接戦、つまり半分くらいはトランプ支持のアメリカ。ヨーロッパだって極右勢力が強まっている。

もともと多様な民族が集まっていたアメリカやヨーロッパが多様性を否定するナショナリズムを求める勢力が強まるのは実によくわかる。

優秀な人たちだけのコミュニティなら良くても、生活するレベルでの多民族はとにかくまとまらない。

日本だっていろんな国の人が多く住むようになって、日本の慣習やルールとは異なる考え方をする外国人が近所に住むとゴミの出し方がずさんだったり、電車で集団で大声を出して騒いだりなどなど日本的な目からすると、

「ちょっといい加減にしろよ、お前ら」

と言いたくなることがある。

そんな外国人、日本のことを理解しない外国人を多様性だとかダイバーシティだとかで受け入れろと言われても純粋に嫌に決まっている。

同じ日本人でマナーやルールを守れない人であれば日本語でなんとかできようものの、相手が外国人だと日本語もしっかり通じないし、そもそも常識の基準と内容が異なるから会話にならない。自己主張が大事だと思われると、郷に入れば郷に従えなんて理解もされない。

そういうことがアメリカやヨーロッパではもっと大きな問題としてあって、犯罪であったり、治安であったりして、だからメキシコとの国境に壁を作るという話が現実的に受け入れられたりする。

となると、ある程度価値観が同じである人同士のほうが日常生活はしやすいのであり、世界戦略を目指す企業でもない限り、多様性もダイバーシティも要らない、と言える。

そんな不満がトランプ支持であり、ヨーロッパの極右でもあり、知的エリート層のリベラルが人権を説こうともそれは説得力がない。

なぜなら、知的エリート層は所得も高く、ゲスすぎるほどマナーの悪い外国人や生活環境が劣悪な中で育った人間に接することがないから。

日本は平均的な教育が施されていて、教養が乏しかったり、学歴がなかったりしてもまだマシと言える。例えばフランスなど、デモ隊の過激さは完全に暴徒だし、自分が応援するサッカーのチームが負けたらシャンゼリゼに駐車してある車に腹いせに火をつけるなど、常識の無さの度合いが違う。

誰でもウェルカムなリベラルな発想は、そういう現実を体感したことがないからであって、しっかりと教育されていない人間がいかに常識が通じず、それゆえに常識を土台にした会話が成立せず、善悪以前に説明ができない相手だということを知らない。

そこまでひどくなくとも、コミュニケーションとしてはある程度の学歴、ある程度の常識、ある程度の知性が共有されているほうがやりやすいわけで、多様性でないほうがスムーズに進む。

何か爆発的なパラダイムシフトだとか、異端を目指す芸術とか、それくらい極端な場合でない限りは同質、同レベルの人間が集まったほうがやりやすい。

それでも会社では、簡単な仕事さえ理解しない人がいるだけでイライラさせられるのだから、極端に常識がない人間がいるとチームワークどころじゃなくなる。

だから、能力値として均衡である人たちが国籍に関係なく集まるのはいいけれど、なんだかカッコいいように聞こえる多様性はうまくいかないとわたしは思う。

単純にいえば、ヴィーガンがひとりいるだけで焼肉は食いに行けないのである。ヴィーガンにいくら肉のうまさや動物性タンパク質の重要性を説いたところで会話にならない。

だったらヴィーガンはヴィーガンだけで宴会をしてもらって、たったひとりのヴィーガンには焼肉パーティーは遠慮してもらうしかない。

そこを多様性とか言って、ヴィーガンでない人が野菜サラダだけをオーダーするなんて無茶はしないほうがいい。

LGBTだって、ホモが嫌いなら嫌いでいいし、レズが嫌いなら嫌いでいい。ただ関わってこなければいいだけで、嫌いなものを多様性でもって無理して受け入れてもらうのは違うと思う。放っておいてもらえれば、お互い何の害もない。

でもヴィーガンやLGBTはそうやって別行動すれば解決できても、生活となるとそうはいかない。ゴミ出しという共同ルールが守れるかなど卑近な例だし、日本であれば日本では想定できないような常識のなさや教養のない外国人は日本というある一定の常識がある社会ではかなり困る。それは多様性というキラキラワードでは受け入れられない現実がある。

多様性が進めば進むほど、そうした対立が激化するのは当然で、それが今のアメリカであり、ヨーロッパなのだろう。

つまり、多様性は表面的な綺麗事で納得できるものでないのだ。グローバル企業が多様性なのは所属する社員の国籍が多様なだけで、能力値は多様でない。決められた能力を共有していて、多様ではなく同質。

常識を理解しない相手にヒューマニズムは通用しない。

日本で説かれている多様性は嘘くさいヒューマニズムばかりで、常識を理解しない相手がどんなに面倒で厄介であるかを認識していない。知らないからこそヒューマニズムを掲げてしまうのだろうけれど…

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