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ミシェル・フーコーの「監獄の誕生」とコロナ禍

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結月でございます。

今、世界中がコロナ禍で、この現象は哲学的にはとても興味深く、きっとこれは哲学史的にも今後パラダイムシフトが起こる出来事なのは間違いない。しかもかなり衝撃的な転換で、実存主義が否定されて構造主義に至った時よりも大きいものかもしれない。

と、わたしはちょうどミシェル・フーコーの哲学書を読んでいて、思えばコロナによるロックダウンや自粛というのは、『監獄の誕生』を説いたフーコーが生きていれば、それを新たな監獄として哲学的に考えただろうということ。

フーコーの系譜学は近代以前と近代後の監獄の歴史を暴いたわけだが、いきなりやってきたコロナによる外出禁止というロックダウンは新たな監獄として考えられるかもしれない。

しかも、その監獄を民主主義国家の国民がある程度同意して、望んでいることも歴史的には衝撃で、感染による生命危機は民主主義とそこにある自由を制限することを容認する。

それは当然、フーコーの監獄の歴史にはない歴史上初の出来事と言える。

監獄は近代以後、精神異常者や犯罪者と閉じ込めるものであり、それは為政者の権力でもあった。

しかし、ウイルス感染者は精神的にも道徳的にも異常ではなく、善悪のないウイルスに感染している「状態」であるために隔離される。

そうしなければ他者を感染させるからだが、故意ではない感染で自由が制限されるというのはどこか違和感がなくはない。

とはいえ、そうしなければ他者に感染を広め、他者もまた自由を制限させてしまう。

精神異常か否かで考えると、単なる感染者よりも感染者に対してヒステリックになったり、差別的対応をしたり、完治後も侮蔑したりする事例があるなら、感染はしておらず、拘束もされていない差別的非感染者のほうが道徳的に精神異常であり、従来のルールでいけば、監獄に収容されるに値するわけである。

ともかく、自分の生命が危機に瀕するかもしれない、と思うと人間は過剰に反応し、その過剰反応が「正義」になる。

感染学者も感染を広めないために行動を自粛し、マスク着用を促し、外出を控えるように「お願い」する。あたかも権力者のような言い方もする。

感染症の専門家だからとにかく感染を抑えることを第一に考えての結果とはいえ、それを倫理的に考えるとちょっと様子が異なってきて、「お願い」をする権利を有しているのか、そもそも他者の自由を制限することを言っていいのか、という疑問も発生する。

生命の危機の可能性があり、死んでしまえば自由も何もないと思えそうだが、国家の感染対策が国民を死なせまいとするのはフーコーの哲学で言えば、「生の権力」ということになる。

特に日本の場合はアメリカなどと違って、公衆衛生的な倫理が高く、権力による禁止ではなく「お願い」による自粛で社会が機能する。

これはフーコー的には「生の権力」が行き渡り、程よく飼い慣らされた状態であり、生かされることを強いられている。同時に生かされることを希望する。

とにかく生き残ること。それが第一になるから自由が制限される状態にあまり議論が起こらず、感染対策だけが注目されるのだろう。

とはいえ、今のところ感染の脅威と個の自由が折り合うのは無理ゲーの領域で、政府も経済という自由との葛藤に苦しんでいる。

歴史的な流れでは、抑圧的な国家から人民が自由を勝ち取った歴史が特に西側諸国ではあるわけで、ところが今は支配される側が自由の制限を求める事態になっている。

そして、支配する側の政府もその要求にたじろいてしまって、渋々国民の自由を制限する処置をしている。

それゆえに感染対策で成功するのが民主主義的流れでできた国家ではない中国で、支配する側、される側という点で考えれば、おそろしく古い体質のままであるところが感染症的には相性がいい。

ともかく、コロナウイルスによって人類史上初めての監獄が広まった。

感染を防ぐためでありながら、つまり肉体を感染による崩壊から守るためロックダウンをし、外出禁止という監獄の中で精神的ストレスを強いられている。

精神の自由を勝ち取ってきた歴史に逆行しながら、感染を回避するためにストレスに耐えることを甘受し、同時に無理ゲーを強いられる国家に対しては怨念も抱いている。

人類の歴史の中で、コロナ禍ほど為政者が気の毒な出来事はなかっただろう。

国家はフーコーの言う「生の権力」を行き渡らせ、生きさせる支配を成就させた結果、コロナウイルスによってその権力が右往左往している。

生命と自由という比較できないものが対立している。

そして今は、コロナへの恐怖という情念がコロナの実力以上に暴れ回っていて、知性的でなく、理性的でない情報に感化され、精神が乱されている。

コロナに感染した女性が「誰かにうつしたかもしれない」と自殺したことも精神が乱された非知性的な社会のせいでもあるし、自殺した本人もその一員であったとも言える。

ともかく、新たな監獄の誕生なのである。

それは鉄格子もなく、自分の自宅であったりする皮肉な監獄なのである。

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