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構造と実存

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結月です。

構造主義で言われることが具体的に、鮮明に可視化されたのがコロナ対策であって、国が違えば対策はまるで異なる。これはまさしく構造主義。

それぞれの国が持つ文化、習慣、そこから生まれる国民性がオリジナルの構造になっているからウイルスは同じであるのに対策に違いが出てくる。

日本のように自粛やお願いで押し切る国は実に珍しく、それは憲法上に非常事態項目がないからだとも言えるが、日本国憲法の中で築き上げられた国民性は確かにあって、そこに馴染んでいるところに法的に個人の自由を取り締まるのは日本には合わない。つまり、日本国憲法後の構造が日本にはある。

イギリスみたいにオミクロンは制御できないことを認め、さらに重症化率が低いなら制限はもうしないというのもイギリスならではの構造。

やたらめったにマスクをするのは日本的国民性で、これも構造であり、できるだけマスクはしたくないという欧米的なものも構造。

中国はゼロコロナで強力な国家権力で、非人間的なやり方も厭わない。国民の自由や生活なんかよりもウイルスを封じ込むことが目的であり、その目的の達成に邪魔なものはたとえ相手が自国民であろうがぶっ潰す。

中国のああいうやり方を日本から見ていると、中国なんか絶対に住みたくないと思うのだけれど、わたしは中国共産党に理解はしている。

なぜなら中国には日本では見ることができないような、どうしようもない人間がいて、それは教育水準の格差だったり原因があるのだろうが、とにかく平易な医学的知識ですらまるで通じない、日本以上に通じない人たちがいるからなのである。

要するに話せばわかるなんてものじゃなく、いくら話してもわからないくらいどうしようもないのがたくさんいて、それを統治するには強権で強引にやるしかないのである。

そこに人権だとか言うのはお花畑であり、そもそも中国は国民が人権を経験したことがないから国民同士レベルでも人権無視なやりとりが普通である。だから制御するためには非人間的にやるしかないわけで、中国は強靭な共産党でなければならない。

これも中国ならではの構造であり、日本人目線で見てしまうと本質を大きく見誤る。

ともかく、国によって構造が異なるから、あまり海外の事例を持ち出して、

「某国ではこうやってる!」

なんていうのはあまり意味がない。

それに外国の「構造」が見えるようになるには、その国にある程度住んだり、その国の人間と一緒に生活してみないとわからない。日本のワイドショー番組で見たところで何もわからない。それどころか間違った先入観が肥大化するだけ。

とまあ、グローバルなんて言われ出してもう随分の月日が経つけれど、構造主義的に見ればやっぱり構造はあちらこちらにあって、平均化は進んでいても統一された「構造」を人類は持つことはない。

共通の構造はおもしろいものでなく、それは個性の衰退であるから、文化の衰退だとも言える。

日本の盆踊りなど民族的な踊りはますます衰退して、子供たちの間でもヒップホップのようなものが広がる。そういうダンスは全世界的なもので、大きな構造がドメスティックな小さな構造を消し去ったわけで、言ってみればデルタがオミクロンに置き換わるようなものであろうか。

思えば西洋のクラシック音楽もヒップホップみたいなものかもしれない。なぜならクラシック音楽はヨーロッパだけでなく、数多くの国々で演奏されるから。

その理由に「楽譜」の数学的優秀さがあり、西洋音楽が生み出したものはWindowsのように民族関係なしに互換性があって合理的に伝わり、その調性は人間の感情のすべてを表現できるほど揃っている。

そういう意味で西洋音楽の世界的広がりは各国のドメスティックな民族音楽を滅ぼしているのかもしれない。

ともかく、あらゆる分野に「構造」はできあがっているが、その構造の外で生きることはできるのか?と思う。

構造とはおそらく「秩序」であって、日本のコロナ禍では科学的に不要とされるシーンでもマスクをする「構造」ができあがり、それはすなわち「秩序」につながっている。

秩序には科学的判断は求められず、内容として矛盾しあう「安心」と「安全」を同時に用いる「安心安全」という言葉が疑いもなく使われる。

それは日本国民が求めているものであるがゆえに「安心安全」は構造になる。構造になれば科学的に正しい見地は立ち入ることができない。

構造の外に出ることは、つまり秩序からはみ出ることであり、ともすれば犯罪者にもなる。

しかし、犯罪者になっても日本の法律という構造で罰せられるのだから、本人が秩序から逃亡しようとしても刑務所という秩序に押し込められる。

となると、「実存」で勝負するしかなくなってくる。実存主義は構造主義に駆逐されたというのに「実存」を求めないとどうも生きづらい。

しかしながら、その国の構造を逸脱した「実存」と一緒にいることは楽なことではない。

おそらく日本が外国人の受け入れを拒むのは、日本の中の「構造」が構造から逸脱した人間を生理的に拒絶する「構造」があるからだろう。

その拒絶は悪いものではない、と思う。

左翼リベラルであれば、なんでも人権を訴えるけれど、中国共産党が力づくでも抑えないと社会が乱れるようなド級のルールブレイカーの怖さが現実にはある。

だから、構造の枠組みとはあまりに異なる実存は迷惑なもので、その迷惑によって我が身の自由が脅かされる。

人間が集まることで構造が発生し、その構造が不文律で人間の集合を束縛する。と同時に構造からの逸脱という自由を求めながら、その自由が構造によって迷惑認定されるとたちまち自由はなくなる。

きっと構造には濃度がある。

日本は構造の濃度が比較的濃い国なのだろう。

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