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死ぬまでにやりたいことを書き出す

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結月でございます。

「死ぬまでにやりたいことを書き出す」なんていうのは、自己啓発本にありがちだけれど、そういうことを考えるのは悪くないな、と思う。

例えば、コロナに感染したら怖いとか、それは死ぬかもしれないからだとか、そういう思いがあるとして、じゃあ、あなたはやりたいことがあるから死にたくないってことでオッケー?と尋ねると、きっと「そういうのは特にはないんだけど…」という答えが返ってきそうで、多くはなんだか死ぬのが怖いから感染したくないとか、そんなところだろうと思う。

そしてワクチンを接種するとして、どうしてそれをするかその理由は「やりたいことがあるから死ねない」と答える人はどれくらいいるだろうか? 

ともかく、人間は漫然と生きてしまうもので、毎日、死ぬまでにやりたいことなど考えていたら疲れてしまうのだろう。

わたしは結構前から自分が死ぬことを考えていて、心霊家だから死んだ後のことまで考えてしまうのだけれど、やはり学生だった年齢とは違い、死というものはよりリアルになってくる。

もっと言えば、死後のことを考えるようになって、死のことをよく考えるようになった。

この世に生まれた今生を精一杯生きないと死んだ後に苦労する。

なんて言っても、なかなかわかってもらえないだろう。

しかし、死ぬ直前に後悔すること、死ぬ直前に、もしかしてそれは病床で、いよいよ死にそうだと自覚したその時、人間はやりたかったのにやらなかった後悔に苦しむ。

すなわち、その後悔は死後にも残るから、今生を精一杯、後悔なく生きないと死後に苦労するというわけなのだが。

しかし、やりたいことが具体的に思いつかない。そんな人も多かろうと思う。

では、どうすればいいか?

そんなことは知らん。他人のことはどうにもならない。そういうことは自分で考えるしかないのだから。

とはいえ、日々、生活のためにルーティン化された仕事をしていたり、人間関係にギクシャクしながら会社に通っていたり、そういう風に毎日がそれらをこなすことに精神も時間も費やさねばならないなら、死ぬまでにやりたいことなど考える余裕はないかもしれない。そして、週末のバーベキューが至福なんてことになり得る。

ところがそもそも死ぬまでにやりたいことは思いのほか、勉強が必要なもので、勉強してないとそういうものは思いつかないものなのである。

例えば、歴史の勉強をしていると、そこに興味を持った場所に訪れたくなる。それはエジプトのピラミッドかもしれないし、マチュピチュかもしれない。

つまり、ある程度の素養がないと「やりたい」ことは生まれてこないわけで、それは教養と言ってもいいかもしれない。

そこが不足していると、やりたいことは腹一杯好きなものを食べることといった望みになる。

目的がないと人間はダラダラとするし、日々の生活に追われているうちはいいが、定年退職をしたりして年金生活になると絶望したりもする。そこに病気でもすればより深い絶望にもなる。

死というのはひとまず今生のゴールなのである。死後があるとすれば、自分という個はさらに続く。しかし、ひとまずのゴールが死。

その距離は人によって異なるが、その距離がどれくらいのものかは誰にもわからない。病気をきっかけに自分はそう長くないとセンチメンタルになっている人がなかなか死なないケースも珍しくない。

ともかく、自分の死がいつなのかは知ることができない。

しかし、死は必ず来る。

こうして毎秒時間が過ぎていくだけで、残り時間は着実に減っていて、減っているという事実は赤ん坊も同じである。

ところで鬱病になったりしてしまう人も多いらしい。

思うにそれは「やりたい」ことがないからではないか。なぜなら、やりたいことがあれば、それに向かって行動するから鬱になることが原理的にない。

もしやりたいことがあって鬱病になるというならば、それは「やりたい」ことではなく、ただの「願い」ではないか。そうあってほしいと自分のことをまるで他人事のように捉えて願っている。

その願いが叶わないから精神が病む。そういう構造なら理解できる。

結婚したいと願っている、だとか、子供ができないけどほしいと願っている、だとか。

願いとなると、確かに思い通りにならなければ鬱っぽくはなるだろう。

そんな願いではなく、自分が能動的に、主体的にやりたいことを考える。それは死ぬまでにはやり遂げたいことであり、それを書き出す。そうすることは悪くないなと思う。

書き出そうとしても目の前の紙が真っ白だったとすれば、なんと悲しいことだろうか。自分にはやりたいことすらない。

しかし、無理に考えて、それが実現不可能な「夢」であっても意味がない。

死ぬまでにやりたいことは、今は実現できなくとも今後の時間のかけ方と努力次第でなんとかなりそうなことをいう。

できないかもしれない。できなかった、となるかもしれない。

でも、やってみてできなかったのならいいじゃないか。

それだけ猛烈にやってみたのなら、他のことがたくさんできるようになっているかもしれない。

さて、やりたいことをやるには達成するためのプロセスをデザインする能力も必要になりそう。これがないと闇雲になってしまう。

山登りのようにその山を登り切るにはどの程度の装備が求められ、どういう装備が逆に要らないのか、そして自らの体力から何時に登り始め、何時には下山しなければならないのか、そういうデザインは何事にも通用する。

死ぬまでに、となると平均寿命から逆算することも必要になる。それなのに平均まで生きないかもしれない。

しかし、やりたいことをやっている人間は生き生きとして幸せそうに見える。当の本人はなかなか達成できず苦しんでいるかもしれないのにそう「見え」るものなのである。

一方、やりたいことをやっていない、やりたいことがない人間というのは不平不満が多く、幸せそうには見えないものなのである。

ともかく、死ぬまでにやりたいことをとりあえず紙に書き出してみる、というのはいいことだろう。

普段からそれを意識して生きている人には今さら必要のないことだけれど、意識したことがなかった人はやってみるといいかもしれない。

登りたい山がなければ、山には登れない。

そして、何かを書き出せたなら、言い訳せずにやる。その達成のためにやってみる。言い訳はしない。絶対に言い訳はしない。言い訳は人間を卑屈にさせる。

どんなにうまくいかなくとも言い訳はしない。

そもそもやりたいことなど簡単に成就できるはずがないのだから。そして、言い訳は自己欺瞞でしかないのだから。

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