結月美妃.com

結美堂の結月美妃公式ブログ

【スポンサーリンク】

『涼宮ハルヒの憂鬱』を読みながらクラシック音楽の終わりを痛感

【スポンサーリンク】

結月でございます。

昨日から読んでいる東浩紀さんの本。『動物化するポストモダン』は読み終え、今はその続編『ゲーム的リアリズムの誕生』を読んでいる。

これはかなりおもしろい。というか、今頃こんな本を読んで「なるほど…」と唸っているのだから、いかに自分が古かったか。

わかっちゃいたけど、わたしは古い考えや古い文化にどっぷりであった時間が長すぎた。時代錯誤もいいとこ。そこから抜け出し始めたのは2014年あたりだと思う。プログラマー的な考えを取り入れ始め、2015年に堀江貴文さんに会ってはっきりと自分が変わり始めた。

今はずっと愛でていた昔の文化や芸術には興味がなくなってしまい、それはそういうことを仕事にしていて、時が進むごとにそれらを提供しようとしても時代とのズレを商売を通して認めざる得なかったから。

『動物化するポストモダン』を読んでその理由がよくわかり、自分が直感的に感じていたものが可視化されたようで、同時にこれから自分がやろうという方向も間違いではなさそうだと思っている。

言ってみればこのポストモダン、いやもはやそれも古くてポストモダン以降でもある今、古い伝統的なものは構造的に求められず、求められるとすれば高齢者からだけであり、なぜなら高齢者はポストモダン以前の価値観で今なお、生きているから。

例えばクラシック音楽はポストモダンではなく近代的な価値観の産物で、ポストモダンな雰囲気が普通であるこの時代には単なる時代遅れでしかなく、それを支えるのは時代遅れな人たちだけという現状。

音楽に携わる人がいかに音楽の文化的重要性を説き、音楽の心を届けようと躍起になっても結局はそれらが近代的なものである以上、ポストモダンな普通の人には通じない。やっぱり通じるのは近代的な高齢者だけ。

だから、音楽であるなら根本的に考え方を変えねばならず、音楽をポストモダン以降に溶解させねばならない。

しかし音楽は作曲者が100年や200年前の、しかもヨーロッパ発祥である以上、曲そのものはポストモダンには溶け込まない。となると、ニーズをポストモダン的に落とし込むしかない。そして新たな価値を作る。

きっとこんな話は演奏家には通じないに決まっている。自分たちの音楽を自ら既得権益化してしまっていて、それを手放すことはしないだろうし、結果、茹でガエル理論で衰退していく。

それくらい音楽家を養成する現場自体が古い近代的なものだし、若手であっても考え方はポストモダン以前であり、ポストモダンな社会とは調和しない。

まるで純文学の文芸誌のような有り様で、クオリティはよくとも社会から相手にされない。

さて、『ゲーム的リアリズムの誕生』を読んでいると、ライトノベルのことがたくさん書かれていて、ふむふむと読みつつも、わたし自身がライトノベルを読んだことがないため、その説明にどうもリアリティが得られない。

そこで本の中で登場する『涼宮ハルヒの憂鬱』が興味深かったので、Kindleにダウンロード。『ゲーム的リアリズムの誕生』と同時進行で読む。

 すると『涼宮ハルヒの憂鬱』はおもしろい。去年は秋から冬にかけて現在の純文学作品をかなりたくさん読んだけれど衝撃的なものはひとつもなく徒労を覚えていたのだけれど、このライトノベルのほうがわたしには痛快で、食い入るように読んでいる。

内容は深くはない、と感じつつも、新鮮なのである。

ライトノベルだからもっとスカスカかと思ったらそうでもない。表現としておもしろい。これがポストモダンか、と今更ながらに知る。

つまり、純文学がまるでポストモダンで書かれていなくて、昨今の作品でも書き方が自然主義な近代であり、その古さがクラシック音楽界と似たようなものを感じた。

そういうわけか。社会はもう涼宮ハルヒなんだ。いや、それですらもう古い作品じゃないか。ライトノベルに詳しい人からすると、今頃何言ってんだ、という感じだろう。

ともかく涼宮ハルヒが世の中に出ている時代に純文学、クラシック音楽、そりゃ相手にされないわ。高齢者だけだわ。絶望的に納得する。

さらに言えば歌舞伎だってそうだし、日本の伝統文化の全部が単なる時代遅れ。

そしていつしかわたし自身も涼宮ハルヒ側の人間になっていて、だからこのライトノベルに引き込まれている。もしわたしが近代のままの人間なら涼宮ハルヒを読んでも意味不明で、チープなものだと馬鹿にして終わりだっただろう。

わたしがクラシック音楽を聴かなくなったのは自然的流れで、周回遅れでようやく自分がポストモダンになっていたからに違いない。

かと言って、自分が涼宮ハルヒをやろうとは思わない。やはり読んでいて根源的な深みが乏しいと思うし、消費という面だけを考えるとそれでよくとも自分がやりたいことでもない。

音楽をやるならその作品にある深みをポストモダン、もしくはそれ以降に受け入れられるアプローチをしなければならない。

とはいえ、音楽そのものが近代的なものであるなら、クラシック音楽はどうあがいても縮小し、消滅はしないにせよ、現実的な終わりは迎えるかもしれない。

作曲家が残した膨大な楽譜はデータ化され、それをAI的に導きながら必要なものを作る材料としては残るかもしれないが…

と、そんなライトノベルの新鮮さを今更ながらに知って、自分は若返ったと思う。おかげでこれからますます新しくなれそう。

衰退するものを存続させようとする試みよりも古いものが破壊されて新しいものが生まれていく最先端にいるほうがおもしろい。

それなのにわたしはそのおもしろさを馬鹿にして全否定していた時間があまりにも長すぎた。

でも、長すぎたおかげでその新しさの理解は普通に馴染んでいた人よりも深いと思う。

ところでわたしはクラシック音楽などポストモダン以前の文化のことを嫌いになったわけじゃない。やはり好きは好き。ただ古くなったと思うだけ。

【スポンサーリンク】