結月です。
今日は宇都宮へ。よく立ち寄る大型書店で立ち読み。
特に読みたい本がないのは随分前のことからで、あったとしてもKindleをAmazonからダウンロード。紙の本は部屋が狭くなるので極力買わない。
しかし、書店に行くと自己啓発系とかビジネス系はまあ似たようなものばかりで、柳の下にドジョウが300匹くらいいる。あんなにたくさんあったら選べない。しかも内包は同じ感じだし、出版点数が多すぎて結果的に出版不況みたいな。
出版乱発のせいで、本そのものに権威がなくなって、権威がある作家もいなくなって、そしてフォロワーが多いビジネス人に本はシフトしていったけれど、そそたらまた似たような人がたくさん出てきてやっぱり権威はなくなったという流れ。
これ、すなわちポストモダン。ポストモダンはますます加速度を増しているのであります。
と、ド文系だったわたしはこれまでに本はかなり読んできたほうだと思うけれど、それは小説であったり、哲学本出会ったりした。
しかし、自分のド文系にうんざりしてきたわたしは今は小説なんて読むことはほぼなくなった。読んだとしてもスタニスワフ・レムのものとか、話がぶっ飛んだもの。身辺雑記の芥川賞系は本を開くだけでため息が出てしまって、
「あんたの個人的生活なんかに興味ないよ…」
と、心でつぶやく。
というわけで、書店に行っても眺めるのは文系ではなく理科系のコーナーで、天文学や量子力学、超ひも理論など。
そんなところにプログラミングの分厚いけど読みやすい本があって中を見てみるとわかりやすくて読みやすかったので買うと即決。
プログラミングは現在、ネット学習でもしているけれど、動画は進むのが早いのでじっくり勉強するには紙の本がいい。
プログラミングの超合理的な発想を眺めているとおもしろい。なぜなら、今まで自分が超非合理なド文系&芸術にどっぷりだったから新鮮なのである。
合理的な命令系統というのがプログラミングと言ってよろしく、目的への道筋を作る考え方としてはわたしにないクールさなのである。
それだけ今まで感性的に物事を決めすぎていて、それはそれで悪いわけではないけれど、それだけだとうまくいかなくなってきた。
それはきっと世の中が変わってきているからに他ならず、感性的でOKだったのは2000年初頭まで。
というわけで、今までの自分になかったものをインストールしたいわけ。
量子力学や超ひも理論に関しては10年近く前にハマってしまって、専門書を一気に20冊くらい読んで概要は知っている。でも、プログラミングはしたことがなかった。
なんとか自分を変えたいっていう気持ちがある。変わんないとこれからやろうとすることがうなくいかないってわかってるから。
しかし、変われると自分がいる業界的な中では新しい立場を確立できるわけで、既存の中へ同調するよりも異端に見える新しさで目立ったほうがいい。そのほうが楽しいし、前向きになれる。
さて、減量モードに久しぶりに突入して4日目。エアロバイクと極端な食事制限は苦もなく続行中。ちなみに今日はほうれん草ではなく、キャベツを食べた。
空腹感はあるものの、それほど気にならない。空腹感があっても食べようと思わない。それがモードに入った証拠。
空腹感があるのは膨張した胃がまだ大きいからで、それが小さくなってくるとそんなに空腹感もなくなってくる。
美味しそうなものがあってもそれを食べてしまうと今までの行いが無駄になるから食べようと思わない。
減量の秘訣はそこで、美味しそうなものの誘惑を受け入れると努力が無になるという絶望を知ることなのである。
連日のエアロバイクの成果もあって、今日も宇都宮の二荒山神社へお参りに行ったが、あの長い階段をそれほど息も切らさずに登れた。昨年だと息が上がってゼエゼエいっていたものだが。というわけで4月の登山への調整も進んでいる。
明日と明後日は出かけて、久しぶりに会う友達と食事をするからほうれん草オンリーとかキャベツだけなんていうことはできないが、カロリー低めのものだけでお酒はハイボールにとどめる。
ところで節分であった。正月は1月1日であるけれど、節分のほうが旧暦に近いので本当の新年は節分からという考え方もある。事実、春らしさが芽生えてくるのは節分くらいからで、元旦はまだ冬すぎる。
ものすごく大変だった公演業務も終わって早くも1ヶ月と2週間経過。次の公演の企画準備中で、ぼけっとはしていられない。が、返事待ちの案件があってまだ次のステップには進めない。しかし、あとひと月で企画の概要は決めてしまいたい。そうでないと人に説明できないから営業にならない。
と、次の公演は減量した体で軽くいきたい。アルコールも抜き。
そしてプログラミングの基礎も頭に入れる。考え方や発想を変えていって、人に会った際、
「なんか変わったよね…?」
と、口にはされないがひっそりと思われるようにしたい。
「相変わらずだね」
は困る。それは変化していないからで、時代が変わっているのに自分が相変わらずということはすなわち古臭くなっているということだから。
時代を捉えつつ、新しいから反時代的っていうのがいいんだよ。