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見ないものは存在しない

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結月でございます。

阪神大震災から26年らしい。

「ふ〜ん」という印象で特に何も感じない。

というのは、当時わたしは世間的にも若すぎたし、そもそもその頃からテレビなるものを見てなかった。もちろんインターネットはまだなかったから聞き伝えに地震のことを知った程度。さらに遠い九州にいたので余計に他人事で、京都の実家はもちろん激しく揺れたらしいけれど、わたしは地震なんかよりも日常を普通に生きていた。

つまり、同じ日本といえども、情報を取り入れなければ「存在」しないのと同じということ。

今、大賑わいのコロナだって、もしテレビもなくネットもなく、どこか辺境の地で悠々と暮らしていたならば、ちょっと買い出しにスーパーに来てみると、

「なんでみんなマスクしてんの?」

と、不思議な気持ちになりつつ、また辺境の地に帰っていくだろう。

つまり、「見ない」ものは存在しないということなのだ。

ここで注意したいのは、「見えない」ものは存在しない、とは大きく異なる点。

「見えるものと見えないもの」なんて本を書いたのはフランスの哲学者メルロ=ポンティだけれど、知覚と想像力というのは哲学的テーマであり続けている。

ともかく、阪神大震災は事実としては存在するものであったけれど、わたしという個の人間にはほとんど存在していない。だから、大震災を経験した人の話を聞いても、

「ふ〜ん」

としか思えず、

「大変だったッスね〜」

なんて新人類的反応。

ところでウイルスは基本的にはヒトの中に存在していて、でも目には見えない。肉眼では知覚できない。

だからこそ、人は恐れるわけだけれど、今日、栃木の那須高原のスキー場が客が少なくて困っているというニュースを見て笑ってしまった。なぜなら、感染対策としてマスクをしながらスキーをしているとあったから。

ウイルスはこの世に存在はしていても、スキーを滑っている空間には存在しない。存在するとすればそこに感染者がいて、咳をしまくって飛沫を飛ばすとその2メートル範囲内でウイルスが数秒ほど存在することになる。

ということは当然、スキーを滑る最中というのはウイルスがない空気の中であって、そこでマスクをするのは何の感染対策にもなっていない。ところが世間ではスキーに限らず、屋外の路上などなど感染とは関係ないところまで四六時中マスク姿を見ることができる。

もしかして花粉のように空気中にウイルスが常に漂っているという認識なのかもしれない。

知識というのは平等ではなく、それを理解する能力の有無、そのレベルの差によってグラデーションを描いているので、社会は底辺に合わせて、何だかよくわかんないからいつもマスク!みたいになっている。

つまり、見ないものは存在しないことの反対側に存在しないものが見えるという人間の想像力があるわけで、それはその存在が知覚されてない状態で想像の世界、すなわち人間の脳内で存在が「描か」れる。

恐怖や不安というものはそこから発生するもので、存在そのものから発生することは少ない。

なぜなら恐怖や不安は人間の想念で物質ではないからで、物質の存在は存在そのものというリミットが当然ある反面、恐怖や不安という想念はいくらでも、無限大に増やすことができる。

それがまさしく今のコロナ禍であり、まともな感染症学者など、ウイルスの存在を的確に把握している人はウイルスそのものには恐怖や不安を抱いちゃいない。病院勤務という現実の中で、このままだと治療できない患者が出てくるという社会的現実に対して警鐘を鳴らしていて、それもやはり恐怖や不安ではない。

さて、見ないものは存在しない、と哲学的にはものすごく大雑把に言えてしまうわけだが、見ないものは知覚できないと言えばわかりやすいだろうか。知覚できないイコール存在を認識できない。

でも、こう単純化するのは哲学的誤謬であって、本当はそうでないという議論があるにせよ、知覚できないものを存在証明するのはなかなか難しい。

ニュートリノだって人間の知覚では無理だから大きな装置を作ってそれを捕まえて、存在証明できる。

見えないものと存在を考えたのは、昨日、子供向けのテレビがやっていないかとNHKをつけたら大相撲をやっていて、観客席がスカスカだった。入場制限をしているせいもあるし、そもそも大相撲自体が昔ほどは話題にならない。

こうしたスカスカ状況はコンサートホールでも同じであって、大ホールに多くて半分、さらにそれ以下なんて状況だったりする。

クラシック音楽も衰退著しく、ホールが埋まっているように見えてもそれは実は招待客だったりして、正味の売り上げはコロナで入場制限してもそう大きくは変わらないんじゃないかなんて嫌味を言いたくなるけれど、とにかく2000人入るホールでスカスカというのは涙ぐましいものがある。

相撲も音楽も、演劇だってテレビだって見てくれる人がいなければ存在しないと同じになってくる。

視聴率が悪ければ、いくらいい番組であっても見てる人がいないのなら番組というデータでは存在していても人間の知覚を通した存在としてはほとんど存在していないということになる。

いくらいい音楽を奏でたとしても、ホールに客がいないのでは音源という存在はあっても知覚された存在としてはゼロに近くなる。

当然、存在意義を疑いたくなってきて、視聴率が悪すぎる番組に出たり、ホールがスカスカな状態でステージに立ったりするのは自らの存在の希薄を痛感する悲劇になり、それはピアニストのグレン・グールドのような特殊な例を除けば普通に死にたくなる。

と考えると、人間は知覚されないと生きていけないらしい。

そしてその反面、コロナウイルスは存在していない環境の中でも人間の脳内で恐怖や不安という情念を種にして「ない」環境でも存在することになっている。スキー場のマスクのように。

これは疑心暗鬼というやつで、疑い出したらキリがなく、存在しないものが存在すると思うようになり、すなわちそれは強迫神経症という精神病である。

現在、緊急事態宣言中であって、それでも街には人が出ているという報道もあるが、それに対して「けしからん!」と家に引きこもる人は精神病的に正常かどうかとなると疑わしい。

ウイルスを保持している人は街中にはいるにせよ、空気中すべてにウイルスが浮遊しているわけではない。

そうなれば感覚的に街に出てもいいよね、と考えるほうが感染リスクはゼロではないにせよ、精神的には正常のようにも思える。

ともかく、コロナというのは、「ない」環境でも「在る」と想像力で感じ、それでしなくてもいい環境でも一律に自粛させられ、コンサートなどなど知覚しないと存在意義がないものを存在させなくするのだからこれは哲学的には矛盾。

しかし、そんな矛盾を訴えたとしても、人々は客の疎らなスキー場でマスクをする。

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