結月でございます。
今日、印刷所からジェネオケ旗揚げ公演のチラシが届き、順次、申込予約を入れてくださった方にチケットを同封して発送。
明日から土日であるため、保育園が休みで5歳児につきっきりである事情から、続きの発送は月曜から。
まだ暑い季節なので12月の公演のチケット発送業務はそこまで立て込むことはないけれど、今年は2公演なので大変。
さて、8月になり、公演の告知を加速させて秋に突入しないと、知名度ゼロスタートのジェネオケは客席ガラガラになる。会員なんていないし、オケの名前も当然知られていないしで、スタートアップとはキツいものなのである。
クラシックのコアなファンはもちろんであるけれど、特に第九を聴いたことがない層にどうアピールしていくかを考えている。クラシックに精通している人は今更第九というところもあるし、意外と精通すると閉塞的な考え方をするのが人間というもので、オーケストラが新規であるのだから、客層も新規を狙いたい。
そうでないとクラシックなんて尻すぼみであって、将来はない。今はかろうじて残っているクラシック好きの年配者を数多くのコンサートが取り合っているだけで、堂々巡りというか、代謝がされていない。
その世代が今後ごっそりといなくなると、とてもじゃないがこれだけのコンサートなど成立するわけがないのは算数レベルでわかる話で、だから新規を開拓しないといけないし、新しい聴衆が生まれてくれることで音楽も新しくなる。
ただ、なんというか、演奏者のほうももっと変わらねばならないとわたしは思っていて、演奏者もまだまだ古い体質の中にいるというか、YouTubeなど新しいことをやっていそうに見えても中身はそんなに新しくないという印象を受ける。
それはやはり演奏者は音楽大学を目指し、音楽大学で過ごし、プロオケに入団といった昔ながらのルートの中で生きてきたからであって、そこの留学が入ろうとも構造自体が新しくなったわけでない。
構造が変わらない中で時代は変わっているから、音楽大学の経営も随分お寒いというかヤバい話も多々聞くのであって、
「そりゃ、そうに決まってるよ…」
と、日本の経済の長い衰退や少子化を方程式に入れれば簡単に答えは出る。でも、なかなか変われない。個人は変われないし、だから組織も変われない。ずるずるといく。
というわけで、ジェネオケとしては新しい試み、新しいアプローチをしたいわけであるが、それもそう簡単な話でない。
そもそもクラシックが変化しにくいものだから、ロックバンドみたいに新曲を発表することはできないし、要はがんじがらめな体質がある。
と、無理ゲーな中で何ができるか真剣に考えている。
クラシックの新規客の獲得であるから、クラシックではないところに意外なアプローチをしなければならない、などなどモヤモヤと考えていて、う〜んと唸りながら、はぁ…とため息をついて、霞を掴むような気持ちになりながら具体化を目指す。
あとはそれを実行、というか試してみるのであって、試してみて駄目だったを繰り返しつつ、進むしかないと思っている。
さて、そんなことを考えつつ、わたし自身がおもろい人間でもないなと最近思う。もっとハチャメチャやっていいのにハチャメチャでない。躊躇しているわけでもなく、人目を恐れていることもないのだけれど、もっとドライブがかかって、スパークしないとつまらん。
ちょっとアタシ、大人しすぎる。これじゃいかんわ。リミッターを外さなければならないが、いまいち外れていない。
と、こうして書いているうちにそれがなぜかがわかった。
集客にビビっているからである。
ホールにお客さんで埋めなきゃならないと考えすぎて、それが重荷になっている。それでハジけられないのだとしたら、それは本末転倒じゃないか。
明日からは集客の心配はやめて、とにかく自分がおもろいと思うことを実行していこう。
ガーシーだってチャンネル登録者数を増やそうと思って暴露を始めたのではなく、暴露がおもろいと思ってやったら大ヒットしたわけじゃないか。
とまあ、毎日ここにつらつらと書くのは、書くことで頭が整理されたり、アイデアが浮かんだりするからで、アウトプットの中で生まれるものがある。
というわけで、本末転倒だったらギラギラ感が出なかった自分がいたことを知る。
うん、やっぱり経験を重ねるとあかんね。どうしても過去経験を参考にしたり、過去経験にビビったりする。
今日からわたしはガラスの十代になることにする。
ガラスの十代はガラスのように脆いんとちゃうデ。ガラスの破片のように触れると血が出るくらいギラついたヤバさがあるっちゅう意味や。
無鉄砲な十代にガラスの破片を持たせたらどないなるかわかるよな。
どんだけヤバいかってわかるよな。震えて待っとけ。
ほなの。
と、ガーシー風に言ってみる。
ちなみにわたしは今、売れに売れているというガーシーの本『死なばもろとも』をKindleで読んでいる。キャラがおもしろいし、アテンダーという世間では知られないことをやっていた話は新鮮で楽しい。
でも、ガーシーってああ見えて、すごく正直だし、義理堅いし、それでいて茶目っ気があって、なるほど女の子が信頼するのはわかる。
ガーシーを悪く言う人って、多分モテない性格なんだと思うよ。
ところでガーシー本を読みつつ、紙の本で先日買ったのは、わたしが誰よりも敬愛する映画監督タルコフスキーの本。『映像のポエジアー封印された時間』(ちくま学芸文庫)。
ああ、なんというアンビバレント。ガーシーを読みつつ、タルコフスキーを読むなんてわたしの守備範囲はデカすぎてすごくね?
さらに最近読んだ本ですごく良かったのは、『中国共産党 世界最強の組織』(西村晋 著)。
これは日本にあふれている嫌中本ではなく、中国共産党がどのような運営を組織的にやっているかを中国在住の著者が調べに調べて事実だけできっちりと説明しているもの。つまり中国共産党への感情は好きも嫌いも一切入っていない。
これを読まずして中国共産党を語ることなかれ。日本人が一方的に思っている中国共産党のイメージがいかにデタラメであるかがわかる本。
とはいえ、中国に興味がないと読んでも全然おもしろくない本でもある。でも、一応中国通として、普通の日本人よりはおそらく120倍は中国のことを知っているわたしはこれを読んで「なるほど、そういうことだったのか…」と250倍になった。
でも、知識戦闘力が異常に高まってしまって、中国を知らない普通に日本人とは話にならないからこのことはネタにして話すことはない。
あとは、同時並行で読んでいるのは中島らもの『今夜、すべてのバーで』。中島らもというとなんといっても「明るい悩み相談室」である。でも、古い。古すぎる。昭和のコラム。
でも、「明るい悩み相談室」は文庫で全部持っているわたし。そんな中島らもの小説を読み始めたのは気まぐれであるが、これはアル中の私小説で、わたしもお酒はかなり飲んだが中島らものダメっぷりが突き抜けすぎていて、お酒をあまり飲まなくなった健康的なわたしはアル中のダメっぷりに付き合うのが面倒になってきた。
でも、中島らもは灘高出身で、やはり頭が良くて、文化がある。ああいう文化の色気って今はどんどん失われて行って、その最たるものが「ひろゆき」だろう。
今は屁理屈的合理性の時代であって、色気の不合理さは排除される。
しかし、屁理屈的合理性のおかげで統一教会が問題にできるわけで、浅はかな不合理や気分ばかりだとああいったところに入信したりしやすい。
ただやっぱり中島らもの色っぽさみたいなものは楽しくて、そこに笑えるのって、
「いいよね」
って思う。
そうそう。近頃のわたしに欠けていたのは、そういう色っぽい笑いじゃないか。昔はもっと色っぽかったと自認する。
ちょっとアタシ、真面目になりすぎてたよね。
なんて言うと、
「ブハッ!」
という声が聞こえてきそうであるが、いやいや真面目路線に傾きすぎてたよ。