結月でございます。
「類は友を呼ぶ」といって、「なるほど、これって言えてるよね」って思うことわざの強さ。
ことわざって確率論で、最大公約数的なことを言ってる。
それは完璧な真理ではないのだけれど、最大公約数的に「言えてる」感じ。
さて、今日のタイトルは「文化的な人と一緒にいると文化的になるよね。」なんだけど、類は友を呼ぶのだから当たり前。
思えば、わたしは今、文化的な人とはほとんど一緒にいない。まあ、自分自身が文化的な人間だからそれで事足りるっていう事情はあるにせよ、対人関係で文化的でない交流がないのは栃木にいるせいもあるし、文化的な仕事をアグレッシブにできないコロナ的な事情もある。
ただ、ちょっと寂しくなるのは、自分が文化的な人間なのに文化的な人と一緒にいないからであって、今日4歳になる愛娘にそれを期待するもあと10年はかかりそう。
なんて言いつつ、うちの愛娘はバイオリンをやったり、本が好きだったりして、4歳ながらも文化的だとは思う。
それはいいとして、ビジネス的な人はビジネス的な人と一緒になって、やっぱりビジネス的になる。
これって住み分けだから、うん、「類は友を呼ぶ」わけだ。
で、文化的なのに文化的でない人と話をするのは辛い。というか、会話にならない。それはネトウヨとパヨクの関係と同じで、興味の方向性が違うのだから接点がない。
猫が好きな人と犬が好きな人とは話にならない。
うんうん、類は友を呼ぶよね。
というわけで、わたしはなんだかんだ言って、文化や芸術の話をするのが好きで、そんな好きな話をしているとエネルギーが湧いてきて、そういう仕事をやっちゃおうか!と、それがビジネスになる。
逆に言えば、文化的でない人と一緒にいると、そういう「やる気」になれないからエネルギーが湧いてこない。
文化とはお金という副産物を生むものだと思うけれど、お金のことしか考えない人は文化は生まない。
お金のことしか考えない人が総じて幸せそうでないのは、精神が貧困になりやすいからで、物質だけの生き方になるから精神が感じる幸せを感じられないのだろう。
となると、文化的な人と一緒にいるほうがいいんじゃね?と思う。
というのは手前味噌だけれど、まあまあ、わたしは文化の話、映画の話、絵画の話、音楽の話などなどをしていると一番幸せで、いやいや、それって嘘。一番幸せなのは猫と一緒にいることなので、それは二番なのだけれど、そういう話ができる相手っていることは素敵だよねって今更ながら思う。
でも、わたしがそんなことを望むのも厨二病で、自分が文化の発信源であればいいじゃねえかって話。
そうやって自分が文化的でいられると、そこに共鳴する人が集まってきて、みんなで楽しい。
だから、文化的な人と一緒にいると文化的になることが楽しいし、自分が文化的になればまた楽しいってわけで、これってウイルスだよね。
コロナ的感染爆発を起こせるような文化をやりたいね。
と言いつつ、文化は上質であればあるほど、感染爆発は起こらないものなんだよ。