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文学作品は読んだほうがいい

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結月でございます。

小説と一口に言ってもすごい小説もあればつまらない小説もある。

つまらない小説は読んでも中身が薄っぺらで読まなくてもいいかなと思う。しかし、それも読者によってであり、読書量が凄まじくなると審美眼も肥えてくるからつまらないと思うことが多くなる。その逆だと薄っぺらな小説でも感動したりする。

読者の実力には差があることは事実であって、書き手はそれを意識しちゃいけないとしても、差があることは事実。

わたしはこれまで文学作品の読書量は多いほうだと自認しているけれど、小説はほとんど読まなくなった。ロベルト・ボラーニョの『2666』を読んで文学はこの作品を超えられないと思ったら、どの小説を読んでもつまらなく感じるようになった。

さて、本ばかり読んで現実が乏しくなると訓垂れなリベラルになるのもよろしくない。やはり世俗のことをきちんとできることが最前提で、現実対処能力は人間には必要なのである。

でも、現実ばかりで色気がないのもよろしくなく、要はその両方がバランスよくあったほうがいいようである。

しかし、実際のところ、文学作品なんてたくさん読むような人は全体のごく一部であって、例えば世界的名著であるドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読んだという人には出会わない。

もちろんそれ以外にも世界的な文学作品はたくさんあるのだけれど、一冊でさえ読んだ人はやはり少ない。であるからして、たくさん読んだとなるとほとんどいない。

注意点は「本を読んだ」という意味でないこと。本は形であって、世の中にはくだらない本が大半で、中身がデタラメなものが多い。ビジネス本なんていい加減なものだし、医療系の本は根拠がないトンデモが普通に売られているし、自己啓発本になれば麻薬みたいなものだし、週刊誌は嘘が多い。

であるからして、本を読んだほうがいいのではなく、優れた文学作品を読むほうがいいという意味である。

とはいえ、左翼的な訓垂れが文学好きに多いから、文学なんて読まないほうがいいのではないかと何年か前から思うようになっていた。でも、やっぱり読んでおいたほうがいいと再び思う。

それは5歳の愛娘といるからで、小さな頃から言語能力というか、言葉をしっかりと操れることを教えないと駄目なんだなとリアルに日々、感じるからである。

ボキャブラリーが少ないと自分の思いや感情をうまく伝えられないからブチ切れたりしやすいし、自分の思いが伝わらず誤解を招く。

この世界は複雑なものであるから、表現力に幅がないと世界を正確に捉えることができない。そのためには「言葉」なのである。語彙力がなく、言葉が単調になると思考が雑になり、ヤンキーのオラオラ系になる。表現する能力がないからムカついたときには、

「ぶっ殺すぞ!」

としか言えないのであり、すなわち生き方が雑になる。

オラオラな柄の悪さまではいかなくとも、普通に仕事をしていて話が通じにくかったり、頓珍漢な対応をされたり、返事が来なかったりなんてことは多々ある。それはきっと相手に対応するボキャブラリーや言葉による思考の深さや応用力がないからなんじゃないかと思うようになった。

だから、ありきたりな話やどこにでもありそうなフツーな提案、ステレオタイプ、紋切り型になるのであって、独創的な話にならない。

世界的な文学作品はそれだけ残る内容だから100年以上経ってもまだ売られているわけで、そこに描かれる人間の深さがとてつもないから読むと読者の思考も深くなっていく。

それにそうした作品はビジネス本と違って説明的でないから、想像力を駆使しながら読む。自分の脳内に情景を描きながら読む。これは人間的なトレーニングとしてはかなりのもので、それをたくさんやっていると奥行きが出てくる。

奥行きが出てくると、思考も複雑になってきて軽々しい考えをしなくなる。社会に対しての読解力が深くなる。

ちなみに安倍晋三を銃撃した男はドストエフスキーの『罪と罰』を読んでいたならあの事件は起こさなかったに違いない。

また統一教会に入信してしまうような人もきっと文学作品をたくさん読んでいれば薄っぺらな胡散臭さをすぐに見抜けていたであろうにと思う。

文学作品だけでなく、「文化」とは総じて人間の奥行きを深める効果があるらしい。文化がなくて金儲けが上手な人は話すと楽しいことはあれど、それ以上の貫禄というものがなくてやはり薄っぺらに見える。

文化の仕事をしている人でも自分が仕事にしているジャンルしか知らない人はちょっと深みに欠ける。

器楽奏者だって音楽しかやったことがない奏者は技術的に長けてはいても決定的に深みに欠ける。おそらく世界レベルというのは音楽以外の文化歴史に精通していて、だからこそ世界観が広い。

すごい奏者というのは音を奏でているのにそのサウンドに文学性を感じたり、絵画的な情景を感じさせたりするものである。それが奥行きとなり、音の迫力になる。強烈な説得力にもなる。

画家だって音楽を知らない画家にはその絵に音がないし、文学が漂わない絵なんて絵葉書にすぎない。

料理人も絵画の素養があるとないとではその盛り付けに大きな違いが出るのは当然。

文学を知らない写真家の写真もつまらない。まずもって迫力がない。ただきれいな写真しか撮れやしない。写真こそ文学性である。

映画監督の黒澤明がどうしてあれほどすごかったのか。それは黒澤さんが文学に精通していたし、音楽もよく知っていたし、絵画の腕前もずば抜けていて、それらが映画の中に濃厚に溶け込んでいるからあれだけの映画が撮れた。

とまあ、そんなすごいところまではいけないのが普通であっても、少しくらいは文学作品を読んでいたほうがお得であるように思う。

結局、給料が恵まれる仕事は人間的な奥行きがある人でないと務まらなかったりする逆説があって、そこがスーパーのレジ打ちや牛丼屋のバイトとは違うところである。

レジ打ちや牛丼屋は「誰にでもできる」仕事であるから給料が安い。

なんてことを言うと昨今では、そうした仕事をしている人に失礼だとか、どんな仕事にも生きがいがあるだとか、誰にでもできるならお前がやってみろ、なんて言われる。

そういう風潮も文学作品も読んだことがない雑な思考で、言葉の貧しさ、考えの浅はかさが如実であって、でも今はネットがあるからそういうことを言われると面倒だから触れないほうがいいとなっている。

しかし、わたしはスーパーのレジ打ちをやっていた時期もあるし、社会的底辺の仕事もやっていたが、誰にでもできる内容であることは確かだった。そして、そういうことは敢えてやらなくていい人たちがいて、やればできるけれどやる必要がない立場が給料がいい仕事であったりする。

あと給料がいい仕事は、誰もがやりたくないことをやる仕事であり、成り手がいないから報酬がいい。

と、不思議でもないけれど、いわゆる有名大企業でいい給料をもらっている人たちに会ってみると、文化を仕事にはしていないけれど文化を持っている人が多い。コンサートに行ったり、演劇に行ったり、展覧会で絵画を見たり、そういう趣味を普通に持っている。

そして、レジ打ちやコンビニで働いてみると、そこの従業員は稼いだ給料を課金ガチャにぶち込んでいたり、休みの日にパチンコで溶かしたりするような人が多かった、というのがわたしが見た経験である。

きっと文学作品を読み込むような素養がないと、頭打ちになるのだろう。平均的な所得は得られてもそれ以上はいかない。

しかし、その素養は若いときに身につけておかないと間に合わない。30代、40代になってから文学作品を読もうなんて遅すぎるし、そもそも興味が持てなくて読もうともしない。ああいうのは若くて感受性が敏感であるときに接しないといけないのである。

遅くとも20代半ば。それがリミット。それ以上になると感受性が年々鈍る。感動が感じられないからハマれない。ハマれないから続かない。

そう言えば昔、村上龍が動画配信をやっていた頃、

「ドストエフスキーなんて高校生のときに読むもんだよ。長いんだから」

と言っていた。そうだなと思った。あんな長い小説は夏休みが1ヶ月ある時期でないと読むのは難しい。仕事しながら読めるようなものでない。

ともかく、文学作品をガチンコで読んできた人は文化の深みがあって話すとおもしろい。

仕事が楽しいかどうかはそこにおもしろさがあるからであって、奥行きのある仕事をやっていると楽しいものなのである。そんな楽しさが力強さになって、仕事に底力が生まれるからきっとお金もたくさんもらえる立場になるのであろうと分析する。

しかし、文学作品ばかり読んで頭でっかちで、その経験を仕事の楽しさに落とし込めないとただめんどくさい奴という訓垂れになるから要注意。そうなると貧乏一直線。

実はこれ、過去のわたし。だから身を以て言える。

文学作品を読み込んでいる自分が崇高だと勘違いしながら、スーパーのレジ打ちしたり、青果売り場で肉体労働やったり、パチンコ屋とサウナが一緒になったビルの常駐警備員やってたり、コンビニでバイトしてた。

社会の底辺にいるくせに精神だけは貴いと思っているアホ。

訓垂れだから、知性を求められない労働現場に溶け込めない面倒な奴。

であるからして、バランスが重要。文学作品を読まないのもよくないし、読むだけっていうのも駄目。

現実をしっかりと生きていける思考がありつつ、文化を持つ。

そんなことに気づくのにわたしは20年かかった。

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