結月でございます。
コロナは見方を変えれば、大変おもしろい現象で、社会を短期間に激変させる破壊力はなかななのド迫力で、クソすぎる習慣を一気に破壊してくれたりなどいい側面もある。
リモートワークの普及もそのひとつで、これのおかげで会社としては無駄な出張費はなくなり、個人としてもわざわざ遠いところまで行かなくても、
「ズームでいいよね」
と言えるようになり、楽。
とはいえ、対面でやったほうがリアルな商談はまとまりやすいということもあり、リモートワークの浸透でやりにくくなったこともあるにはある。
さて、こんな記事があった。
なるほど、自宅でリモートワークするとなると、書斎的な部屋って必要になってくる。一人暮らしならいいけど、所帯持ちとなると生活空間と分けた部屋がないと仕事モードにならない。
人間というのは「場」が大事なところがあって、物事がうまくいかないときは「場」を変えたりするとアッサリとうまくいくことが多々ある。
あとは「場」の雰囲気。
家族がテレビを見て団欒しているようなところでは仕事モードに頭が切り替わらないし、そもそも集中できない。
気にならないっていう人は稀で、大体の人がその雰囲気に合った「場」を求めるから、図書館で勉強したりする。
小さい子供が走り回って、オモチャや絵本が散乱している部屋ではリモートで打ち合わせはできないし、PCで作業するにも気持ちが高まらない。
だから、書斎的な部屋が必要になってくるというお話。
確かに日本の一戸建てやマンションはよほど高級なところでないと、書斎として使えるような設計はされていない。
家とは会社から帰ってくつろぐ場であり、仕事場ではなかったのだから。
なので、かなり意識高い系で、高収入でないと書斎はないわけで、そういう層の人は書斎で深夜、一人になってコニャックを飲みつつ、自慢のオーディオでお気に入りのジャズを聴くといった昭和後期的なところがある。
まず、そんな楽しみをできる人は割合的にほぼおらず、大半は寝床と本棚が一緒にある部屋で、せいぜい寝る前に枕元の本を読むくらいが関の山。
ところがコロナでズーム会議をするとなると、寝床を背景にはできないし、それなりの格好が必要になってくる。
思えば書斎というのは文系の意識高い系のものであり、あとは物書きだとか、そういう特殊なものだった。
それがサラリーマンまで必要になってくるのだから、コロナ現象はおもしろい。
しかし、本当に場所は大事で、わたしも栃木に来たとはいっても、仕事場としている戸建てでないと仕事は集中できない。
生活に使うマンションのほうだと、3歳児がママゴトをしたり、殊更大きな音でガシャガシャと食器を洗ったり、いきなり大音量の中国語でWechat通話をしたり、すべての動作が雑で騒音というデリカシー皆無の女がいたりして、どーにもならない。
それはハレとケと同じく、ケの中では仕事なんかできないのであり、だからこそ、今までみんな会社にスーツを着て出勤していた。
スーツも重要で、これがあることによって、ダメダメな人間でもちょっとは仕事する気になるわけで、家でパジャマ姿では頭脳はシャープにならない。
だから、書斎は男でも女でもこれからは自分の聖域として家族であっても立ち入らせない場として必要になってくる。
その特別な空間がある家に住む経済力がないのであれば、結婚はしないという選択もノーマルになってくるかもしれない。
今は結婚よりも、いかに自分が快適に過ごせるかが大事でもあるし、特に東京の家賃事情を考えると家族で住むというのは魅力的なものでない。
独り身だと、ワンルームであってもそこを書斎として認知できるし、コロナによるリモートの一般化で婚姻率は下がる可能性もある。
あとはズーム会議に映ってしまう背景としての自宅設計も出てきて、一人暮らしの家でも住居の書斎化は進むことも考えられる。
そうなるのであれば、やはり書斎は静かで集中できる場にしたいし、自宅でありながら仕事モードになれる、つまりパジャマ化の誘惑をいかに「場」の雰囲気で断ち切るかは重要になる。
休む場としての自宅は今まで副交感神経的な位置づけだったけれど、交感神経系の仕事モードも兼ねる場所として変わっていく。
そしてさらに言うなら、自宅を書斎化できる能力と分別がある人がこれから出世する。
いつまでも割り切れずに書斎を作れず、家庭内の雑音を断ち切れない人、それに協力しない配偶者がいるところは上には行けなくなる。
結局、書斎を持てるかどうか、自宅を書斎的空間にできるかどうかは、その人の文化力に関わってくる。
なぜなら、書斎というものが文化的なものだから。
そういう文化がなければ、そもそも書斎をどう作ればいいかもわからない。
こうしたことからもコロナがきっかけで貧富の二極化はさらに進む気もする。
それは書斎があるかないかで所得の差になってくるという意味においてね。