結月でございます。
ものすごく古いシャンソンに「詩人の魂」というのがある。今のフランスではまずまず唄われることなんてないくらい古い唄。
日本人にとってシャンソンとは蓄音機時代のもので、エディット・ピアフとか、まあそういうものが日本に戦前から輸入されて「シャンソン」という認識になったからね、感覚が古いの。
でも、その頃のフランスのシャンソンは名曲があまりにも多くて、それはひとつの歴史だね。
で、「詩人の魂」は、
Longtemps, longtemps, longtemps
Après que les poètes ont disparu
Leurs chansons courent encore dans les rues
なんて歌詞。意味は、
「長い、長い、長い時が経って、詩人たちがいなくなった後も、詩人たちの歌はまだ通りでは流れているよ」
って感じかな。
要するに、「芸術は長く、人生は短し」ってことなんだけどね、肉体ある人間は死んでしまっても、その人が残した芸術は長く生きながらえるってこと。
例えば、モーツァルトなんて死んでから200年以上も経っているのに、まだ演奏されている。
でもね、これはコロナ以前からの傾向なんだけど、そんな詩人の魂も残りにくくなっている。そういう感性に訴えかけるものの価値が低くなっているんだよ。
詩にウットリするような時代でないってこと。
今の歌謡曲だって、ダンスで魅せるとか、ビートで惹きつけるとか、ポエムの言葉が弱くなっているね。
だから、昔の懐メロなんか聞くとびっくりするわけ。なんてポエムの響きなんだろう!って。言葉の力がすごくてさ。
今は機能性重視だからね。
それはそれでものすごくいいことで、だって今まで無駄なものに大きな労力をかけたりして、根性論みたいなものが平然と跋扈していたから。
そこが整理整頓されてきたっていうのはいい傾向だと思う。
そんな整理整頓がコロナがかつてない速度で加速させたね。
テレワークをやって、集まるだけの無駄な会議がなくなったり、居酒屋行って騒ぐストレス発散がなくなったり。
感覚的にやっていたことが粛清され始めてきて、合理的になってきた。
ところがそれは芸術的なところにもドッと押し寄せてきて、芸術的なものを感じる余裕みたいなものも奪っていく。
それでも人は困らない。
だって、芸術なんてなくても死なないから。
それにコロナが怖いとなると、芸術なんて悠長なことを言ってる気分じゃなくなってくる。
芸術よりワクチンだよね、やっぱりほしいのは。
だから、詩人が死んでも歌は通りに残っていたのが、残らなくなってくる。
詩人は死んで、詩人の魂も死ぬってことで。
ピュアに芸術だけやって生きている時代じゃない。村上隆の「芸術起業論」さながらにやっていかなくちゃ。
それももう村上隆が十何年か前に言ってることだから、今だと当たり前になってなきゃいけないんだけど、意外と当たり前になってないっていうか。
日本で芸術に携わっている人は、どうも芸術は人のために必要だと勝手に思い込んじゃっているのが多くて、ビジネス的戦略がまるでないから。
それゆえにいきなりコロナが来ると、ニッチもサッチもいかなくなる。いやいや、この壊滅的危機にもかかわらず、まだお花畑な理想ばかり言ってる気がする。
だから、詩人の魂って死んでいくんだよなぁ。