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やりたいことやらずに死んだら苦しい。

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結月でございます。

公演もちょうどあと1ヶ月になって、高ストレス状態だったのがさらに高ストレス状態になってきて、でも今回はコロナ禍の中で進めてきて、ようやくコロナも落ち着き、飲食店だってやっと全面解除にたどり着くところまできたけれど、まあしかし、今回の公演は感染症というパンデミックの中で進めたものだから本来心配しなくていいことがたくさんありすぎて、そりゃ疲れるよ。

と、そんな高ストレス状態になると、あまりよく眠れない。いや、眠っちゃいるのだけれど、深くは眠っちゃいない。だから、よく夢を見る。

それは公演に関する夢もあり、要するに変な夢だったり、嫌な夢だったり、つまりは心配が夢となっておかしな形で描かれる。

大学の時はフロイトを学んでいたわたしはそんな自分を夢判断してみたりする。

さて、こんな夢を見た。

どういうわけか、わたしは安楽死させられるのである。安楽死する注射を打たれるのだが、針が皮膚に刺さるそのチクリだけは痛みがあって、そこからは数秒ほどで濃厚な睡眠薬を飲んだかのように意識が朦朧となり、深い眠りに陥り、ついには意識がなくなる。

そして、わたしは死んでいるのである。

心霊学では死後の世界はあって、死とはつまり肉体という物質から魂という想念が分離することで、それゆえに死した肉体は腐敗し、肉体を失った魂は浮遊し、次第に非物質界のあの世へ行く。

だから、自分が「思う」ことや「想う」ことはそのまま残っていて、自分が死んだとわかる。

しかし、自分が死んだことを理解しないとそれは浮遊したままの魂となって、それは浮遊霊、未浄化霊、要するに幽霊となって、たまに写真に映り込んでしまったりする。

交通事故などで予期せぬうちにいきなり死ぬと自分の死を自覚できないため、浮遊霊になりやすい。

あとは死後の世界はないと思っている人はその信念ゆえに死後の世界を認められずに、自分がまだ生きていると錯覚したまま浮遊霊になる。

どれも次第に自分が死んだことを理解し始めるわけだが、執着心が強いと怨霊となって成仏しないでこの世に漂う。

とまあ、それが心霊学の基本中の基本。

というわけで、わたしはなぜか自分が安楽死してしまう夢を見た。

公演も控えているのに死んでしまうとやりたいことができないままこの世を去ることになる。

夢では公演のことは具体的に出てこなかったけれど、何かわたしはやりたいこと、やらなくてはならないこと、そういったものがたくさんあるのに安楽死の中で意識が薄れて死にゆくことに大変苦しい思いをしたのである。

旅行に行こうと思っていたのに台風がやってきて中止になってしまった。

こういう事例は多々あって、悔しい思いをすることは容易に想像できる。しかし、旅行なんて、自分が生きていればまたいつだって計画することができ、別の日にやり直すことができる。

しかし、死んでしまうとやり直しができない。これは辛い。

やりたいことをやれずに、「次」がないことを認めるのは苦しい。

肉体を失っているから、やりたいことに手を出そうとしてもその手は届かない。この状態は歯痒いを通り越して絶望であって、魂は泣きじゃくる。

交通事故や通り魔殺人で死んでしまうとそういった状態になる。

買い物に行こうとしてただ歩いていただけなのにそこに暴走した車が突っ込んできたり、もしくは通り魔がいきなり切りつけてきたりして死んでしまう。

突如として日常が失われ、買い物にさえ行けない。

その日は家族でハンバーグを食べる予定だった、そんな些細なことさえ実現できなくなる。

不本意な死とはそういうものである。

だから、東日本大震災で津波で大勢の人が死んだあとは、幽霊の目撃談がたくさんあったのはそのせいで、いきなり日常が消えてしまって自分の死が理解できない死者が浮遊霊となって現れたのである。

さて、そういう不意なアクシデントな死は想像しやすいが、多くの人は日常を日常として生きていて、自分がやりたいことを後回しにしたり、やらなかったり、いつかできたらいいのになぁなんて思い描くだけで時間を過ごしたりする。

あとは、本当は自分はこれがやりたいのに周囲の目を気にしてやらなかっただとか、親が反対するから断念しただとか、兎角、やりたいことを諦めることは多くて、またやりたいのに自分が力不足だと言い訳をして実行するのを躊躇したままであったりする。

そうして過ごしたまま歳を取り、人間は死が近くなっていく。

そして、いよいよ自分の死、つまり自分の人生が終わってしまうことを受け入れなければならない時になって、やりたいことをやらなかったことをひどく悔やむ。どうせ死んでしまうのであれば、やっておけばよかった、失敗してもやっておけばよかったと苦しむ。しかし、もうその時間はない。

その苦しさは喉をかきむしりたくなるほどのものであるから、やりたいことはやったほうがよろしい。

人間はやれる理由より、やらない理由を探すのがうまいと自己啓発では言われるけれど、それは本当で言い訳しながら自分を殺していく。

確かにやりたいことをやろうと思えば、トラブルはあるし、面倒なことをこなさなければならないし、恥をかくことはあるし、人から悪口を言われるかもしれないし、大きな責任を負わなければならないし、まあ大変なのである。

それがあまりに大変で、やる前からその大変さがわかるからこそ、人間は得てして自分が本心からやりたいことを避け、ちょっと無難なところを狙う打算的な生き方をする。

打算で生きると大きなトラブルはない。しかし、自分がやりたかったことを殺して生きていくから、死ぬときにそれを悔いる。

結局は生き方なのだろう。

生きている間を無難に過ごし、今生を犠牲にして死ぬときにその代償として大きな後悔という苦しみで帳尻合わせとなるか、それとも今生にやりたいことをやって、その負担は大きく、トラブルや面倒に直面しながら生きてく。しかし、いよいよ死ぬときになって、自分はよくやった、よく生きてこれた、我が人生に悔いなし!と気持ちよく死ぬことで帳尻合わせになるのかのどちらか。

これは美輪明宏さんが言う「正負の法則」であり、もっとわかりやすく言えばエネルギー保存の法則。

最終的には損も得もない。エネルギーは帳尻合わせになる。

ただ、もうこの先がないのに後悔で帳尻合わせになるのは辛い。

もし今、死んでしまったら、やりたいことをやっている真っ最中なのに死んでしまったらこんなにも悔しくて、こんなにも絶望してしまうのかと、わたしは安楽死させられる夢で体感してしまい、原理はわかっちゃいたけど、夢の中で苦しんだのである。

わたしは人の生は緩やかなクレッシェンドで進んで、ようやく生が終わる時がフォルテッシモであるのが一番だと思っている。

そういう意味で大器晩成型が幸せで、早熟なのは老後が辛い。

肉体年齢で成果が決まるスポーツ選手は現役引退が早く、華々しい現役時代と異なり、その後が惨めになったりするのは「正負の法則」で先にエネルギーを使い果たしてしまったからであろう。

しかし、死に向かって積極的に生き、その終着点がフォルテッシモの幸せだと生きていくと満足して死ねる。

もちろん、狙い通りにはいかず、途中半ばで病死することもあるだろうし、フォルテッシモを目指しても挫折するかもしれない。ただ、最期のフォルテッシモに向かって生きていれば、その成功率は高い。やはり、自分が望んで、それを行動していればグダグダになることは少ない。

我田引水。

わたしは2016年にサントリーホールでコンサートをやって、たくさんのお客さんに来てもらって、演奏も奇跡的なものになって、公演のための準備や実務は過酷であったけれど、それがすべて報われる結果になって大満足した。

自分としてはもういつでも死ねると思った。これをやったんだったら、死んでもそんなに苦しまないし、閻魔様の前で胸を張って報告できる。

その気持ちは今も変わらずだけれど、また公演をすることになった。コロナ禍で始め、この公演でコロナは終わりにしなければならないという思いはうれしいことにドンピシャのタイミングで終息に向かっている。

コロナによって今まで体験しなかった面倒さや気苦労があり、現実は生優しくはない。しかし、やりたいと思ったことは始めて何の後悔もないし、取りかかってよかったと心底思う。

もしこの公演をやらなかったら、企画の時点で諦めていたら、せっかく2016年のコンサートでいつでも死ねると思っていたのに後悔しながら死ぬことになっていた。もしやりたいことをやらなかったら過去の実績がお釈迦になるところだった。

コロナだからって諦めていたら、寿命を迎えたとき、

「あの時、やっておけばよかった… モーツァルトのレクイエムをやる機会はあの時しかなかったというのに… コロナが大変だなんて言い訳しなければよかった…」

と、やらなかった後悔の中で死んでいき、死んだ後の魂は2度とチャンスをつかめないことに泣きじゃくるのである。

でも、わたしはそうはならなずに済みそうである。コロナの困難があれども、実行したから。ゴールは近づいている。あと1ヶ月。

コロナの感染状況次第では公演中止になってもおかしくない中を進んできた。強運なのか、どうやらたどり着けそうである。

寿命が来た時も気持ちよく死ねそうだ。

そしてそれはわたしだけでなく、この公演に来てくれるお客さん、そして演奏者たち、合奏団、ソリストたちも同様である。チケットを買ってよかった、このオファーを引き受けてよかった、そういった行動が後悔のない死への材料になる。

打算なんかで生きるな。

周囲の価値観で生きるな。

自分を殺して、やりたいこともやらずに生きて、たとえそれが無難であったとしても、死際で取り返しのつかない後悔の苦しみとなって帳尻合わせをさせられる。

そうであるなら、やっちまったほうがいい。そして、やっちまったら後悔しなさんな。自分で始めたんだから、結果が芳しくなくとも愚痴ってはいけない。希望通りにいかないのは世の常で、そういうものなのだから。そもそもやりたいことに一生懸命であれば、結果なんてどうでもよく、後悔なんてしやしない。後悔があるならそれはやりきれていないということだから。

さて。

あと1ヶ月。

公演まであと1ヶ月。

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