結月でございます。
栃木も雨。
愛娘を保育園に送ってから、スーパーで買い物。雨降りしきる中、傘は持たないでクルマから降りる。わたしは傘があまり好きでなく、多少の雨なら傘はささない。傘をどうこうするよりも濡れるほうが楽と思ってしまうのである。
すると、駐車場のアスファルトに小さなアマガエルが飛び跳ねていた。
大きさは1円玉にも満たないほど。鮮やかに黄緑いろをしていて、それが黒いアスファルトを背景にするものだから映える。ここにいれば、間違いなくクルマに潰されてしまうだろう。
実はわたしは蛙が苦手なのである。
小さな頃、それもきっと愛娘くらいの年頃、家の近くにあった不気味な沼に大きなウシガエルがいて、
「ゲコッ」
と、やられた。
そして、推定3〜4歳だったわたしは泣き声を絶叫し、猛ダッシュで家に帰った。
それからというもの、蛙が苦手、というか恐怖の対象になってしまっている。
それゆえに小さなアマガエルはスルーしてしまおうと思った。傘もさしていないから、早くクルマに戻りたい。
しかし、わたしはそのアマガエルと捕まえた。ぬめりがあって、ピョンと跳ねるものだから、少し苦労した。
それは恐怖していた蛙とは違って、妙に可愛らしいものだった。
蛙はオタマジャクシからだから、どこにそんな水があるのだろうと思った。連日の雨で少しずつ飛び跳ねて、こんなところに来たのだろうか。1円玉より小さい体のジャンプを連続して、それはそぞかし長旅だっただろう。
大きな芝生があったので、そこに放した。
お腹を出してひっくり返ると、またピョンと跳ねて黄緑の背を見せた。
もう一度捕まえて、愛娘のために持って帰ろうかと思った。なかなか可愛らしい蛙なのである。
でもやめておいた。
蛙の飼い方を知らない。こんな小さな蛙が何を食べるのかも知らない。
しかし、芝生にいるとはいえ、これから雨が止んだら、この蛙は生きていけるのだろうか? また飛び跳ねて駐車場のアスファルトに戻りやしないか。そう心配になった。
だが、蛙を持ち帰ったところで、蛙の飼い方を知らないなら、蛙がハッピーになるとも思えなかった。
だからやめておいた。
そんな小さなアマガエルとの出逢い。
蛙なんて田んぼが多いこの栃木では珍しいものではないだろう。きっと無数の蛙がいる。そして、無数の蛙がアスファルトにまでやって来ている。
しかし、出逢ってしまうことで、その蛙は特別なものになる。どこかにいるであろう他の蛙とは違った存在になる。自分とつながった生命になる。
うちには猫が3匹いる。
この猫たちも自分が要求したものでなく、勝手に持ち込まれて、仕方がないから飼い始めたのだった。
でも、この猫たちのことは可愛い。猫などこの国に殺処分するほどたくさんいる。それなのに3匹の猫は特別なものなのである。
出逢うことと出逢わないこと。
大半は出逢うことがない。出会える確率はとんでもなく低い。
人間だって世界には50億人はいる。しかし、自分と出逢う人の数はそれに比べると極端に少ない。
だから、出逢えることはただならぬ縁なのである。
そういう縁を大事にする。
中にはせっかく出逢ったけれど、うまくいかなくなって別れてしまったり、いつしか会わなくなったりする。
それは大変残念なことだ。
もっとうまくやれる方法があったに違いない。
生命が吹き込まれた出逢い。出逢いが吹き込まれた生命。
そういうものがあるなら、大切にしよう。