結月でございます。
人というのは、近づきすぎるのもウザいけれど、遠すぎるのも寂しい。
他人がウイルスを持ってるんじゃないかという強迫観念がウイルス以上に蔓延しているせいで、ソーシャルディスタンスなんていう横文字で人と人との「近づき」が制限されている。
外出自粛のもと、引きこもりが推奨されてしまって、そこで何が起きているかがわからなくなった。
悪質な児童虐待かもしれないし、猛烈なDVもあるだろう。
そういう内密なものは、ただでさえ外からの把握が難しい。それでも幼稚園や保育園、学校があれば、子供に殴られた青あざがあったりするのを見つけられることで発見することができた。
しかし、そんな現場も封鎖となると、ウイルスに感染して肺炎になるよりもおぞましい地獄があることになる。
病気というのはいくらきつくても、ある程度は割り切れる。なぜなら、それは病気だから仕方がない。ところが虐待となると割り切れないし、加害者がいることでそれは延々と続く。しかもそれが同居人であると生き地獄になる。
わたしは文学的に捉える、つまり人の魂がどう感じるかのほうに重きを置いているので、ウイルス感染の悲劇にはそれほど人間的な危機は感じないのだけれど、それを抑止するために密室内で虐待が増えるだとか、失業者が生きる術をなくす苦悩には敏感に反応する。
辛いのは肉体ではなく、精神のほうだから。
仕方ないとはいえ、まだまだ肉体の恐怖のほうに社会が傾いていて、言われてはしても経済破綻による精神の瓦解についてはそれほど本格的には語られていない。
ところで人と距離を取れないとなると、悩んで自殺しそうな人をどうやってケアすればいいのだろう?
訪問することもできないし、会うこともできない。会えたとしてもマスク姿という怪しいルックスで、表情が半分以上隠れた状態で優しい言葉が響くのだろうか。
悩む人は手を握ってもらえただけで安堵するものだ。しかし、それもしないように言われる。するとなったら、アルコール消毒をして手を握るのだろうか? そんなことをされたら、ますます死にたくなる。
Zoom などネットを介してできたとしても、やはりリアリティがないから、語りかけるのは難しい。それにネットを介すと、リアルとは違った雰囲気になって言葉の使い方が難しくなるし、一方的に接続を切られたらおしまいだ。
人を救うには濃厚接触が必要なものなのだ。
ウイルスはにある一定数はあるとは言っても、過剰に人のほうが警戒しすぎて、人と距離を置きすぎている。
それは自分は感染したくないという自我でもある。そしてちょっと卑怯さを伴うその感情を隠すために自分が感染したら人にうつすからとやや美化される。
人にうつすのは事実であっても、本心はどの程度だろう? 自分は感染したくないという自我の割合のほうが多いのが人間というものだろう。
だから、ソーシャルディスタンスでは表向きの他者への気遣いはあれども、実際は過剰に警戒する自我の膨張が多いように思う。
それを乗り越えられうのは愛だけれど、愛はそう簡単に得られるものでないし、愛でもって行動できるのはかなりの度胸がないとできない。
古くはイエス・キリスト。イエスはマスクなんかしない。イエスは愛でもって癩病にも接した。
あとはマザーテレサか。
それくらい特別な人でないと、愛で行動するのは難しい。
病気の苦しみよりも精神の苦しみにこれからもっと目を向けなければならない。
自粛によって虐待やDVを受けている人、自粛によって家賃が圧迫されて絶望している個人事業主や経営者、自粛によって失業し、明日の生活費に困窮する人々。
それらの苦悩は自粛によって感染者数が下がることを待てやしない。ましてやワクチンが開発されることなど待てやしない。
しかし、愛よりも恐怖が先行したこの世の中で、近づくことも許されず、マスクやアルコール消毒液を携えた姿でどうやって救うことができるのだろう?
わたしもその方法がわからない。