結月でございます。
心理学者の記事を読んでいたら、総じて思い出せる記憶で最も古いのは3歳の頃らしい。確かに自分のことを振り返ってもそうかもしれない。ただ、わたしは6畳の部屋でベビーベッドに寝かされて、母が台所で洗い物をしている昼の記憶があって、それは生後数ヶ月のことだと思う。
三島由紀夫は生まれたその瞬間の記憶があるなんて言ってるけど、それはさすがに嘘だろう。
思えば、今になっても鮮明に思い出せる記憶はそれほどない。小学校は6年通っていても思い出せるのは数えるほどしかないし、中学生の頃のこともそんなにたくさんではない。
高校となると中学よりも記憶が薄くなって断片でしかない。大学も同様でいろいろなことがあったのにそれほど思い出せない。
やはり日常的なものは忘れるもので、忘れない記憶というのはよほどのもので、腹の底から感動したとか、死ぬ思いをしたほどの苦痛とかそんなものかもしれない。
自分の中でサッと新鮮さを伴って思い出せるのは、パリに初めて行ったときのことで、タクシーを降りてサンミシェル界隈を歩いたのは震えるほど感動して、ホテルを探すのに迷っているといきなりそこにパンテオンが目の前に現れたのには度肝を抜かれてしまって、それはもうチビリそうなほど感動した。
あとは家人と初めて中国のレストランで出会ったときのこと。あいつが着ていた服も鮮明に覚えていて、レストランのエントランスでテーブルを探していたその表情など克明に記憶している。
その後、中国で過ごした日々もなかなかよく覚えていて、それはあまりにも未体験ゾーンでとても楽しかった。
銀座での14年はまあまあ覚えていることもあるけれど、漠然としている。しかし、2016年のサントリーホールでマロオケによるラストのジュピーターの感動は鮮明なまま覚えていて、これは死んでも輝きを失わずにあの世でも光り輝く思い出になるに違いない。
その後はコンサートが終わってひと月後に自動車学校へ通い始め、さらにそのひと月後に免許を交付され、その日に愛車で初めて東京都内を走ったときの恐ろしさは忘れられない。初めての運転で、迷いながら都内を5時間走って命からがら自宅に着いたときは汗がびっしょりなだけでなく、トイレも限界に達していて激しく放尿しきってようやくのことで落ち着けた。
しかし、はっきりと思い出せる記憶は本当に少ない。日常は記憶に留める価値もないのか自動的に忘れ去られて行く。
そう考えると、忘れられないような感動を数多く持っていることがハイクオリティな人生なのじゃないかとも思う。
そんな感動を得るには大勝負しなければならない。大きなリスクを背負って思い切りビビらないと感動はない。
ネットもなく、習得してまだ間も無く、つたないフランス語で行ったパリ。言葉もわからないのに異国の地で女に出会って過ごしたこと。
まさしく大勝負だったコンサート。免許取得の当日に事故死するかもしれないようなドライブ。
それらは「大変だった」の一言で今では言えるけど、またやるかと訊かれればちょっと躊躇してしまうもので、しかしそうでなければ忘れられないメモリーにはならない。
世の中には無難に生きているひとも多い。いかに難なく過ごせるかをモットーに生きているようなひともいる。
でもわたしはそういう生き方は感動が少なく、きっと死ぬ間際で後悔するのではないかと思う。
死の瞬間を看取ってきた医者の話では、人間は何に最も後悔するかというと、「やりたいけどやらなかったこと」というじゃないか。
そりゃそうだ。もう死ぬんだから、今更遅い。それは後悔するよ。
言い訳してやらなかったとか、死んでも死に切れない。言い訳は他人向けのものであり、本当のことは自分がよく知っている。自分の情けなさ、自分の姑息さ、自分のちっぽけさ、自分のクソさ、そういうことを自分はよくわかっていて、でも対外向けに言い訳でごまかしてやらない。諦める。
ヤバいけどやりたい。でもそのヤバさが怖くて逃げ出してしまう。それでは感動はない。嫌な思い出になるだけ。
でも、ヤバいけど、やっぱりやってみたくて、失敗するととてつもないかもしれないけどやってしまう。そしてそれがギリで成功する。ここに大きな感動が生まれる。その感動は死んでも消えない価値になる。
さて、小さい頃の思い出は少ないのは、年齢的にそんな大勝負をしていないからだろう。ところが世の中には子供の頃に大勝負している、例えばスポーツ選手などがいて、おそらくそれは鮮明に思い出せるものだと思う。
あとは子供の頃が恐ろしいほど貧乏だったとか、そういう人は身の上話が多くなる。
身の上話が多い人間の過去は暗い。その暗さをひきづって生きるから、暗いままのことが多いように思う。
忘れられない暗い記憶とは嫌なものだ。そういうことはできるだけ避けて、明るく前向きに、暗かったことはすっかり忘れて進みたい。
人間が思い出を忘れやすいのは、過去に引きづられると前に進めないからだろう。そういう仕組みになっているに違いない。
いちいち、昨晩食べたものが不味かったと後悔していては、今日楽しく食事ができない。
身の上話とは、昨晩食べたものの不平を言いつづけるようなものじゃないか。
これからも生きていかなくちゃいけないのだから、身の上話はやめて、次に何をしたいかと考えるのがいい。
成功している人、出世している人、そんな人種は身の上話なんかしない。次に何をやりたいか、その将来の話ばかりをしている。
過去はもう書き換えられない。しかし、将来はいくらでも自分でコーディネートできる。すばらしいことじゃないか。そういうすばらしいことに時間をかけるべき。
ところで3歳以前の記憶はほとんどなくなってしまうとなると、2歳半の愛娘も今、わたしとこうしていることも忘れてしまうのだろう。
とはいえ、今はスマホがある。スマホで撮影した愛娘の姿を彼女は自分で見るのが大好きでよく見ている。
スマホの出現で過去のことがアーカイブ化されるようになり、それをリアルタイムで見ていると、3歳以前のことも忘れないようになるのではないか。そういう意味でもスマホは人間を変える大きな発明と言える。
さあ、明日は土曜日。保育園は休みだから、どこかに遊びに行こう。先週は「とちのきファミリーランド」へ行った。
たとえ忘れ去られるとしても生きることは積み重ねだから、その記憶は記憶の形でなくともどこかで生きているのだろう。