結月でございます。
自分が死ぬときのことは必ず1日一度は考える。死ぬときに満足できるかを想像するためで、そうすると今のうちにどう生きておかねばならないかを感じられる。
今は新しいオーケストラを立ち上げてみたりして、やりたいことをやれている気はするけれど、どうもこのままだと死ぬときに、
「案外、つまんなかったな… アタシの人生…」
と、感じるような気もする。
これまで結構自分なりにはいろんなことをやってきたつもりではあれど、思い返せば大したことないようにも思う。
人より変わったことをやってきたとも思いつつ、あまりリアリティを伴ったフィーリングがない。
これは忘れてしまっているからだろうか?
いやいや、憶えちゃいるけれど、当時の感動とか感銘が消化されてしまってリアリティを失っているのかもしれない。だから実感がないとも言える。
思えば、東京から栃木にきていつの間にか4年なのに4年の実感がない。愛娘だって5歳半だから2歳になる前から毎日世話して、週末はいつもどこかにクルマで出かけているのにそのリアリティがない。いろんなことがあったはずなのに憶えていない。
この4年間どころか、銀座にいた14年間のこともそんなに憶えていない。ものすごくいろんなことがあった14年であるはずだけれど。
なるほどこれだけ忘れていたらリアリティが得られなくて、実感がないわけだ。
そんな実感がない状態で死ねば、そりゃ自分の人生、つまんなかったと思ってしまう。
でも、着物のこともすごくやったし、コンサートもやってきたし、わりに人がやってないことをやっている履歴はあるはず。ところがそれらは霞のようである。
どちらかというと忘れっぽい性格だからかもしれない。あまり執着しないから忘れる。思えば、過去になった出来事には執着がない。だって、過去はもう変えられないから。
過去を想うって時間の無駄だと思うし、そういう陰気なのは嫌だと思う。だから執着しないようにしている。というより自動的に過去のことは考えない。
よく考えてみれば、昔、今よりももっと若いときのほうが過去に執着していた。例えば、フランスが好きだから昔はフランスのことばかり話していた。
若いときこそ、未来を見るべきで、過去のことなんか振り返らずに前に進むのがいい。それなのにわたしは若いときのほうが後ろ向きだった。これは大いなる時間の無駄でちょっと後悔している。
となれば、過去のことをすぐ忘れてしまう執着のない今のほうが昔より精神が若いのかもしれない。
少なくとも今は公演のことに必死だし、昔のことなんて思い返す時間はない。昔のことを思い返して感慨にふけるというのは演歌の世界であって粘着質で嫌らしい。
過去の蓄積が感じられないというのは、今が充実、というか懸命に生きている証拠とも言えそうだけれど、まだまだやりたいことができていないし、昔思い描いていた姿と今は全然違うし、このままだと死ぬときに「意外とつまらなかった」なんていう感想をこぼしそうである。
しかし、この調子で自分がやってきたことを忘れるのであれば、これからどんなことをやっても同じ。
であれば、画家が絵を描いている最中に死んだり、指揮者が指揮台の上で死んだり、小説家が小説を描いている間に死んだりするのがいいように、何かに夢中になっている間に死ぬのがいいかもしれない。
人間、そう狙ったようにはできないが、少なくとも何もしないで死ぬのを待つみたいなのはやめるべきで、生涯夢中がいいようである。
いわば、腹上死である。
しかし、夢中の間でなく、数時間でいいからこれまでやってきたことを振り返る時間がほしいとも思う。
いずれにせよ、何も挑戦しなかった、積極的に行動しなかった、やり遂げたことがなかったというのが死ぬ直前には大きな後悔になるから、
「あちらこちら命がけ」(by坂口安吾)。