結月です。
幸せを求めるっていうのは、大変愚かなことなんですよ。だって、幸せってとても漠然としたもので、これと特定できるものでもなく、さらに持続性があるわけじゃないので。
だから、婚期で焦っているひとにありがちな、結婚したら幸せになるみたいな考えは危なくて、結婚を目的にすると、本来結婚しないほうがいいようなひとと無理に結婚したりして面倒なことになり、不幸な日々になることが多い。
ちなみに幸せと違って不幸というものはとても持続的なものです。
わたし自身は自分が幸せかどうかなんて考えたこともなく、でも、
「今、幸せですか?」
と尋ねられれば、
「幸せなんじゃないかな」
くらいに答える。
幸せかどうかを考える頭がないから、当然、不幸という概念も自分にない。不幸でないから、まあ幸せなんじゃないかなということで。
不幸はない代わりに、
「めんどくせー」
ということはあって、基本的に人間関係とはめんどくせーものだと思っている。
わたしは人間関係はかなり薄いほうな上に、男と話すことがほとんどない。男と話しても全然おもしろくないので興味がなく、居心地も良くない。ガチレズだから女のほうが好きで、女といるほうが楽しいし、居心地がいい。
それでもめんどくさい女は嫌いで、さっとわかりやすく、細かくなくて、ウジウジしないでハッキリとしていて、頭のいい女が好きで好きでたまらない。
とはいえ、そんなのはあまりいないのが世の中で、わたしの周りにはめんどくさい女が多いような気もして、その筆頭が愛娘の2歳半の子で、保育園へ行く前もどの靴を履くのかあれも嫌、これも嫌でハッキリ決めないし、昨晩もアンパンマンのDVDを見るというから、わたしは隣室でロベルト・ボラーニョの小説を読んでいると、2歳児は泣きながらやってきて、
「いっしょに見る〜」
と、うるさい。
アンパンマンを見たいなら一人で見ればいいのにと思いつつ、そんなところが可愛くて、仕方がないからテレビの前でボラーニョの続きを読む。
ともかく、愛娘にはめんどくさくない女に育ってほしい。
幸せなんかどーでもいいと思っているわたしも幸せだと思うときはある。
それは猫と一緒にいるときで、猫と布団で一緒に寝ていたり、猫が膝の上にいたり、三匹の猫たちが揃って自分の周りにいるときなんかは幸せだなって思う。
猫というのは実にめんどくさくないものであり、犬と違って自分でトイレもしてくれるし、わたしが本を読んでいてもそのお腹の上で寝ていたりと勝手にしてくれて、他人を引き込むことがない。
めんどうと言えば、部屋や服が毛だらけになることくらいで、まあそれは愛嬌というもので、それがなければ猫というのは可愛らしくない。
あとは山登りをした後に温泉に入り、冷えた生ビールを一気に飲み干すとき。これはとても幸せなものである。
人間は過酷なことをしないと感動はないもので、ビールそのものはおいしくても、仕事をしてない日のビールなんかはテイストとしてはおいしくとも感動はない。
そう言えば、2歳半の愛娘はめんどくさい女だけれど、わたしに抱きついたまま眠ってしまっているときなんかは幸せだなと思う。
と、その寝顔を見ながら、この子が大きくなるにつれ、社会の中で生きていかねばならず、このあと90年ほどは生きるとなると、ああ、大変だ、こんな小さな子もいずれは苦労をしなければならないのだからと想うと涙ぐましくなる。
そう考えると、死ぬことが一番幸せなのかもしれない。
今生での苦労をようやく終えることができるのだから、それは幸せと言っていいだろう。
病気でも老衰でも、死ぬのが嫌だ、嫌だと思って死ぬと嫌な気分のまま死ななくてはいけないからこれは不幸だろう。
死ぬことがハッピーと捉えられていれば、幸せでいられる。
しかし、自殺は山登りも仕事もしないで、ダラダラ家で過ごしたときのビールみたいなもので、そこには幸せはない。
とにかく、幸せなんて猫と一緒に寝ることや山を登ってビールを飲むことくらいの場所にあるのだから、無理に幸せを探したり、求めたりしないほうがいいのだろう。