結月です。
年を取るのを実感するのは、疲れが翌日に残っていたり、体力が落ちて昔はできたことができなくなってきたりするところにあろうけれど、それは人間だけでなく、猫も同様である。
うちには3匹の猫がいるが、一番の年上が来年で12歳。他の2匹は同じ年でそれでも10歳になる。
猫としてはシニアだから、年に2度、健康診断をしていて、先日3匹の診断を終えた。
最年長の雌猫がちょっと腎臓の数値が悪くなってきた。数値としてはまだ少しだけれど、腎臓は良くなることはないので、これから数値は年々上がっていくのだろう。
まだ症状は何も出ていないが、やはり年は取ったなと感じるところはあり、運動量が減ったし、寝ていることが多くなった。
ともかくも健康診断の重要性は我が身をもって悟り、そっれをきっかけに予防医療の啓蒙も進めるのであるから、それを猫にも適応させている。おかげで数値が高くなり始めたところで気づくことができ、来月の再検査を通してこれからの処置を獣医と考える。
腎臓はその病気の進行をいかに遅らせるかであるから、早期発見が寿命につながる。人間とまったく同じである。
2年近く前にもう1匹の雄猫を診断したら、心臓から雑音が聞こえ、血液が逆流しているという。そしてエコーで調べると心臓の壁がやや厚くなっていた。これも猫にはよくある心臓病である。
だから、こちらも半年に一度、心臓のエコーをしていて、今のところ進行はほとんどしていないという状況。
自分がいかに死ぬかについてはよく考えるが、猫とどう別れるのかも想像はする。猫のほうが早く死ぬから、人間のほうに心の準備がいる。
猫はお役目をもってやってくるものだと思うから、逆に言えばお役目を終えると死んでしまうのだろう。
いやしかし、これは人間も同じで、人間も何かしらのお役目があるはずなのである。そのために生まれてきている、わたしはそう思う。
ただ人間はそのお役目を無視しがちで、よそ見しながら生きる。自分に何ができるかを考えないとお役目は見えてこない。
でも猫はその存在そのものがお役目であり、猫は人間よりもその点においてずっと進化していて、尊いものである。
とまあ、腎臓の数値が少し高かったので、早速、ロイヤルカナンの腎臓向け療法食を買った。キャットフードとしてはなかなかいいお値段だが、そんなところにケチって悔やまれるようなことはしたくない。
キャットフードにもいろいろあるが、ずっとプレミアムなものしか与えていない。安いキャットフードは猫にとってジャンクフードと同じようなものだから、食べるものは大事である。
これはまたしても人間も同じで日々、食べるものでその人に発生する病気が決まってくる。
わたしはずっといい加減なものばかり飲み食いしてきたおかげで、しっかりと動脈硬化にはなったが、猫たちに与えるものはしっかりとしたものばかりで、自分のことは駄目でも猫のことは心配でたまらない。
とはいえ、自分の健康状態にも医学的に理解が深まったので、現在は健康すぎるほど順調である。口にするものと運動を気にかけることで人間はこんなにも快適になるものなのか。
わたしも自分の人生でできることやそこに費やす時間がどれくらいか現実的に見えてきて、おかげで不謹慎な生活なんてやってられない。残っている時間をいかに有効に、充実して使うかを意識する。銀座にいた頃は考えもしなかった。若さとはそのようなものである。
しかし、その無知のおかげでしっかりと肉体には病原となるものが蓄積されているのだからうまくできているものだ。
ともかく、快楽的な不謹慎生活で心筋梗塞や脳梗塞で猫より早く死ぬなんてあってはならぬわけで、猫たちをしっかり見届けるのはわたしのお役目である。
猫たちも大よその残り時間も計算できるくらいまできたから、あと何年かはわからないが、猫たちと一緒にいる時間をできるだけ増やしたい。酒飲んで酔っ払って寝ているような無駄な時間は費やさず、そんな時間があれば猫たちを抱いて、猫吸いをする。
そんなことをしているうちにわたしだっていつしか老いてどうなることやら。平均寿命的にはまだまだあるとはいえ、健康寿命で換算するとそうでもなさそうだし、ひとつのコンサートを開催するだけでも1年半はその準備に必要となる。そう考えると、あまりたくさんのことはできないのである。
だから、小さな行動、小さな行為でも意味のある時間にしたい。であるからして、スーパーに行って店員が、
「レジ袋は有料になります」
なんて訊いてきて、それに答える時間がもったいない。
そんなどうでもいいことをわざわざ質問してくることに時間が失われることに苛立たしく思う。
その数秒があれば、猫の頭でも撫でてやりたい。
しかし、そうやって猫の死が、そして自分の死が未来に感じられるようになって、おかげで充実は深めたように思う。
死がなければ、もっといい加減で雑なことしかできやしない。それは使いきれないほどの金を持った奴の金の使い方に似ている。
財布の中には限りがあるから、いい買い物ができるのである。