結月です。
世の中には答えがあるものとないものがある。
そして答えがあるものでもひとつしか答えがないものといくつも答えがあるものがある。
どう生きればいいかなんて答えがあるようで答えがなく、もしかすると答えがあるかもしれないが、それはやってみなければ、生きてみなければわからないもので、生きてみた結果、最期を迎えたとき、自分なりに答えっぽいものが見えるかもしれない。
科学や数学は答えがひとつだけのことが多く、芸術などはいくつも答えがある。
とまあ、いろいろあるわけだが、小学1年生の愛娘の宿題や勉強に付き合っていると、今の学校や塾の先生は間違えた解答にバツをつけることがない。バツはつけずに直したものを改めて丸をつける。
宿題では家で丸つけをやるものがあり、それはわたしがやるのであるが、間違っていたところには容赦なく赤鉛筆でバツをつける。もちろん、わたしが間違いにはバツをつける時代に育ったのもあるし、自分の考えとして答えがはっきりとひとつだけのもの、例えば足し算引き算、漢字の記述などは間違いは間違いなのだから、間違いを認識させるにはバツで印をつけるのが当然だと思うからだ。
バツをつけないのは昨今の優しさ優先みたいなせいだろうが、間違いをしっかりと指摘しないことが優しさなのだろうか? 間違いにバツをつけないことが人を傷つけないとしているような風潮は整合性がないのではないか。
間違いを指摘してやらないと子供はできていると勘違いするし、正解と間違いの差が曖昧なものとして見せてしまう。これはよろしくない。
芸術や生き方など解釈が絡んだり、創造するものならそこにバツをつけるのはよくないが、足し算引き算でバツをつけないと間違いがはっきりしない。
Z世代はメンタルが弱く、怒られるとすぐに萎えてしまうという話も聞くが、そうなったのは間違いにバツをつけない嫌らしい優しさの中で育ったからだろう。
答えがひとつしかないものと解釈が無数にあるものとの性質の違いを教育者がわかっていない。なんでも一括りにして優しくして、
「大丈夫だよ」
と、つぶやくようにバツをつけない。
確かに昭和時代の教育現場は人格破壊の場でもあったりして、そもそも時代が単純だったし、情報量も少なかったし、それゆえに先生も今で考えれば出鱈目なスパルタを平然と行っていた。
そうした反省から今の風潮が生まれたとも言えるが、人を大事にしようとする優しさは一見すると良さそうに見えるが、間違いを間違いと言わないのは嘘であり、教える立場が正確なことを伝えていないのである。
答えが無数にあったり、答えを自ら創り上げるようなことにいきなり否定することのいけなさと勘違いしている。
子供というのはいくらでも成長するのだから、間違ったところを間違いだとはっきりと言うことでますます成長する。そこを有耶無耶にしては成長できない。子供は自らでまだ判断できないのだから、そこは間違いを教えてやるサポートがむしろ必要なのである。
駄目なのは普通に間違いだと言えば済むことを間違いに対して体罰を与えることで、それが昭和だった。
しかしながら、そんな体罰的厳しさによって全体がある程度の水準まで引き上げられたことも事実で、才能がない人でも厳しさによってそこそこまではいけることがある。
だが、才能のない人にいきなり優しくするとただ甘えてダラけるだけで、伸びるものも伸びない。
おそらく今の優しさ、バツをつけない優しさはマイルドな「放置」なのである、もっと言えば、教える側が教えられる子供に嫌われたくない「保身」に他ならず、だから「嫌らしい」わけである。
間違いを指摘してくれないなら学校や塾に行く意味も半減する。そこには勉強を教えてもらいに行っているのだから、しっかりと勉強での間違いは言ってもらわないと困る。
そんな優しさのせいで大人になってから軟弱では結局、その人のためにならない。社会人になってちょっと叱られて会社に来なくなるようでは食っていけない。ましてや外国で自分とは異なる文化を持つ相手とやり合えない。
だから、わたしは今の日本に蔓延っている優しさを信じちゃいない。ほとんどが保身である。医学的な感染予防でするマスクではなく、人の目を気にしているマスクと同じである。
そんなメンタルでは力強く生きていけない。
だから、6歳に愛娘の宿題で間違いにはバツをつける。そして、バツになったところは直せばいい。間違いを理解して直せば済む話だ。
しかし、日本は修正や訂正があまり受け入れられない。いきなりちゃんとしなくては、間違えないように、失敗しないようにと考えすぎて、間違ったことにはやたらと謝罪をする。
直せばいいだけのことを謝る。
バツはつけないくせに、間違えば謝らせる。そんな嫌らしさが日本にはある。
いきなり正解は導き出せない。間違いや失敗を重ね、切磋琢磨しながら人間は進んでいくものだ。それなのに間違いを指摘しないで、ちょっと間違っただけで執拗に攻撃する嫌らしい潔癖さ。
どうでもいいことに厳しく、しっかりと指摘すべきところは曖昧にする。それはよろしくない。
しかし、正解がはっきりとあるものなんて楽なものだ。甘いものだ。
正解がない芸術など間違っている間違っていないではない。
おもしろいかおもしろくないか。
どんなに頑張ってもおもしろくないものはおもしろくない。つまらないものはつまらない。
音楽だって絵画だって小説だって映画だって、駄目なものは駄目。おもしろくないものはおもしろくない。
わたしはクラシック音楽のプロデューサーをしているけれど、下手くそには興味がないし、おもしろくない演奏は聴く時間が無駄だと思うし、つまらないものにはあらゆる語彙を動員して罵倒したいと思う。
でもその逆もあるわけで、すごい演奏には絶大な興味を持つ。
それゆえに正解がないもののほうが厳しいけれど、おもしろい。足し算引き算程度の正解なんて、誰がやっても同じ答えで正解が決まっている。電卓でやったっていい。
その程度のことでバツをつけるのを躊躇して、子供が傷つくのを過剰に恐れているようで芸術ができるかってんだ。
ただ、芸術的シビアさが組織になるとおかしくなる。
宝塚である。
本質から離れた人間関係の厳しさ。それは芸術にはあまり関係がない。そんな厳しさがないと強烈に美的なものは築き上げられない事実はあるが、閉鎖的な空間で伝統的な時間が長いと人間は危険になるものだ。
さて、芸術はおもしろいかおもしろくないか。
では、あなたの生き方はおもしろいものか、おもしろくないものか?