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音楽から遠く離れたところにいるわたし

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結月です。

今月から資料作りをしていたものができあがり、本日、申請を完了。

ようやく立て続けにあった書類作りが一段落し、明日からはジェネオケ・サントリー公演のチケット業務などの実務を急いで取り掛かる。

思えば、5ヶ月くらいはこうした書類関係をやっていた。昔はこういう作業がダメダメな人間であったのに、今はヒステリーも起こさずやれる。そうなのである。昔はこうした作業にアレルギーがあり、まるでできなかった仕事内容。

年を重ねるごとに実務ができるようになってきて、今では行政や官僚が作る悪文だって読み込むことができる。

昔は感性ばかりで生きていて、美意識だけで生きていたから実務にアレルギーがあった。

「この世は美しいものだけでいいんだよ」

という生き方であったが、結局のところ、感性だけでは物事は進まないし、何も具体的に決まらないし、とどのつまりは何も生み出せないことを知って今は割り切ってできる。

すなわち、実務ができるようになったと同時にわたしは音楽から離れていっている。まるで木製探査機が天王星を超え、海王星を超え、さらに太陽系の外側に行ってしまうようなものである。

2017年頃から音楽を聴くことがめっきりと減ってしまい、自分の中では音楽は終了していて、映画も終了していて、絵画も終了していて、文学作品も終了している。要するに興味がなくなった。

自分としてはもう十分やったからいいやという境地で、それらがわたしにとって新しいものをもたらすものでなくなったのである。

そのくせオーケストラを始めたから矛盾しているように見えるが、音楽的感動があるのは自分が主催した公演の本番くらいである。

しかし、それはどちらかというと公演を創り上げて、それをやり終えたという感動が大きくて、その中身として音楽が、演奏がある。

あとは公演開催を決めて、曲目を決める時だろうか。

曲を決めることは大きな想像力を用いるので一番楽しい時間かもしれない。

それくらいわたしが音楽に興味がないからプロデューサーという仕事ができる。音楽と離れているから客観的に判断できるし、理想ばかり思い描く左翼リベラル的な夢物語には酔いしれず、現実だけをしっかりと見て公演を考えられる。

そして、音楽に感性的に埋没していないからこそ、演奏家のことを信じることができ、公演を任せることができる。だから、わたしは演奏面のことは一切口出さない。好きなようにやってくれ。責任はわたしが持つ。

というわけで、音楽の仕事をしているのに音楽から遠く離れたところにいる。WordとExcelばかりである。

音楽はもう聴かないから頭の中は冷たく、実務をやる。実務に感性が混ざると夢物語になるからいけない。そして、企画だけは「ひらめき」を重要視していて、ワクワク感が込み上げてくると実行に取りかかる。

しかし、打算の心があってやるものはうまくいかない。ここが大変難しい。打算が必要なこともあるからで、そこは妥協しなければならないときがある。が、それでうまくいくことはほとんどない。

さて、そんなわたしは音楽そのものには飽きてしまっていて、それはつまり音楽だけだと「仕事」でしかないからである。

哲学者のハンナ・アーレントのいう「仕事」である。

ちなみに誰にでも代替可能で、生活の糧のためにする仕事は「仕事」ではなく、「労働」という。もしくは「作業」。コンビニのバイトやスーパーのレジ打ち、牛丼屋の店員などはこれに当たる典型ではあるが、実は多くのサラリーマンの仕事は「労働」に近い。

それは「仕事」とは自己実現のためにあるものだからで、自己実現のために会社に通っている人はあまり見かけない。どちらかというと生活のためである。

「仕事」より上になると「活動」であり、これは社会的課題に取り組むことと言っていいだろうか。

つまり、「仕事」とは自己中心的なところがあるが、「活動」は他者意識である。公共意識とも言えようか。

わたしは音楽だけ、音楽の美しさだけを目指して2018年まで公演をしてきたが、これは「仕事」である。自分が目指す美を現実にしたかった。

でもコロナ禍になり、モーツァルトのレクイエムで祈りを考えた頃から、明確に他者意識を見出した。

そして今は音楽だけやることの閉鎖性にはうんざりしていて、もっと社会的課題に関わらないとおもしろくないと思う。自己満で音楽をやってもつまらない。それは悪いことではないけれど、わたしとしてはもはやおもしろいものでなく、つまらないものになった。

そうして今年に入って見つけたのが予防医療であって、容易に防げるはずの病気が生活習慣の悪さで野放しになっている現実をなんとかしたいと思うようになった。そういう訴えを音楽と共に提供できたら観客の健康度が上がり、末長く音楽を楽しめる人生を提供できる。

そうした「活動」の領域に自分が入ってきたからこそ、音楽を聴かなくなった。それは「活動」のための材料として自分の中にすでに蓄積されているから今更やる必要もない。音楽のことは演奏家に任せられるのだから、わたしはプロデューサーとしてはもっと別の世界を目指す。

でも、内心は演奏家も「活動」の領域に入った演奏活動ができるようになってほしいとも思う。例を挙げれば、五嶋みどりはずっと前からそうした領域の人だと言える。彼女は音楽をやってはいるが、音楽よりももっともっと先に行っている。

とはいえ、わたしに音楽的感動がなくなったわけではない。どんな公演になるか、ジェネオケが奏でるサウンドを想像して今から興奮している。その想像をはるかに超えるサウンドがきっと公演日に聴けるだろうと楽しみにしている。

そんなコアになるものが胸の中にはしっかりとあって、おそらくあと10年くらいは燃え切ることはない。でも20年先となると自信がない。その頃には燃え切ってしまって、完全にやり切ったと思えているかもしれない。

でもそれでもいいんじゃないか。太陽だって核融合で輝いているが、将来は核融合の材料となる水素は枯渇し、超新星爆発を起こしてなくなってしまうのだから。それと同じ原理が人間の中であってもおかしくない。

ただ、社会性のあることに挑んで行動していると、それによってもたらされた結果が誰かを幸せにしていたり、誰かの命を救っていたりすることがある。そんな結果があるなら大満足じゃないか。

これが自己実現のための「仕事」だと自己満は得られても他者への救いがない。だからアーレントは「仕事」より上に「活動」を置いた。

自分の活動が社会性を帯びることばかり考えていると、旅行というものにも興味がなくなる。

どこかでいいホテルに泊まって優雅なバカンスを楽しむなんて、それをしたところで社会性に関係ないから何もおもしろくない。そう思ってしまう。

自分の行動が社会的課題を解決することに関わらないとつまらないのだから、ただ旅行するだけなんて時間の無駄感が込み上げてくる。

そういうわけで用事もないのに外国に行く気持ちも失せたし、旅行に限らず明確な目的がないものには極力時間を使いたくない、と思う。

CDで音楽を聴くこともおそらくはわたしにとって旅行みたいなものだから興味がなくなったのだろう。

音楽に関わりながら、音楽よりも先にあるもの。でも、音楽を通さないと到達できないもの。そういうものに興味がある。そういう行動に意欲が湧く。

しかし、音楽だけやって音楽が深まるか? 深まるはずがない。

だから、音楽から離れてもっと人間を探求し、関わる「活動」によって結果的に音楽を深めることができる。

音楽しか想定していないコンサートと音楽より先にあるものを内包したコンサート、その違いはおそらく明確にある。

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