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結局はちゃんとやらないとできない。

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結月でございます。

子供でも大人でも結局のところはちゃんとやらないと何事もできない。

そんな当たり前のことをしみじみと思ったりする。

それは4歳の子供と一緒に過ごしているせいでもあるし、過去の自分を振り返ってある程度の成果が出たものは結構がんばってちゃんとやっていたことばかりだとわかったから。

愛娘は3歳の昨年からバイオリンを習うことを始めたが、まだ3歳というのは脳も未発達だし、じっとしていることもできないから、月に2回のレッスンだけで家では特にわたしが教えたりすることはなかった。

教える気がなかったというのもあるし、まだ小さすぎて理解する力がないから、まあ今のところは別にいいやと思っていた。

しかしながら4歳になって、言葉もしっかりしてきたし、脳の発達も感じられ、バイオリンもいい加減このままじゃいけないと思い、家で毎日弾かせるようにした。つまり、わたしが教えている。

あんまり余計なことをしてバイオリンの先生の邪魔になってもいけないと思いつつ、音楽解釈がどうこうという時期でもないし、要は「弓を持たせ」て「楽器を構えさせ」て「指を押さえさせる」という根本的なところだから教えても差し支えないと思った。

大人だってたった月に2度、レッスンだけの時間にバイオリンを弾いたところで弾けるようになるわけがない。30日間でたったの1時間しか弾いていないのだから。

弾けるようになろうと思ったら、少しずつでいいから毎日弾くことであり、だから4歳児にも15分でいいから毎日弾かせるようにした。それはつい最近のことである。

すると数日経って、指も押さえるようになり、ほんのちょっとだけ「らしく」なってきた。

たった数日でこれだけ違うものかと驚いたわけで、こうなるとますます毎日やらせようと思う。

それは文字を書かせたり、足し算を教えることも同じで、勉強も毎日やらないといけないのは、ちょっとサボるとすぐに忘れてしまうから。

成長の真っ只中にいる幼児を見ていると、

「結局はちゃんとやらないとできない」

という当たり前のことがよく見える。

だから三日坊主は最低最悪なのである。

さらに要領も大事で、いくら時間ばかりかけてもやり方が悪いと無駄ばかりで上達しない。できるだけ短い時間で習得できるのがよく、そうでないと次に進む時間がなくなってしまう。

「成果が出てないのに、でも頑張った」

というのは言い訳だし、欺瞞なのではないか。

それは頑張ったのではなく、やらなくていいことに労力を費やしただけで評価の対象にはならない。

ところでバイオリンでなくとも楽器を弾くことは教えてもらわないとできない。子供も大人もいきなり楽器を渡されて、ひとりで練習して弾けるようになれと言われてもできるものじゃない。

勉強もそうで、数学だって、物理だって、とりあえずは教えてもらわないと理解できない。ひとりで応用するにしたって、基礎は教えてもらってからの話。

小さな子供を見ていて痛感するのは、教えてもらえる環境にあるかが重要で、それがないと子供は勉強しないまま大きくなること。

手前味噌なことを言うと、うちの愛娘はわたしが勉強を教えられるからまだマシなのだと思う。

それは自分を振り返って思うことで、わたしは自分が3歳のときはひらがなは読めなかったし、絵本も読んでもらっていなかったから文字という概念がなかった。

わたしの親が保育園児であったわたしにまったく教えていなかったからで、親に教育的な能力がなかったわけである。ついでに言うと小学校のときだって勉強に関しては放置だった。

だから、愛娘が絵本を自分で読んでいたり、文字や数字を書いていたり、バイオリンでキラキラ星を弾いていたりするのを見て、

「わたしが子供の時は、こんなこと全然できなかった…」

と、格差を感じるのである。

3歳や4歳の時点でもうこんなに差があるものなのかと、自分の保育園時代と愛娘の今を照らし合わせる。

しかし、この世には上には上がいて、もっと教育熱心でバイオリンだって4歳のくせに驚くほど弾く子供もいるし、スパルタで勉強を叩き込まれている子供もいる。

とはいえ、わたし自身がそこまでは望んでいなくて、なぜならそうなると頭デッカチのアンバランスな人間になりそうだから。

それはもしかして霞ヶ関の超優秀なキャリア官僚などかもしれず、頭はズバ抜けていいのにバランスが悪くて、大事なところがわかってないなどなど。

さて、子供のうちは親がやらせたり、学校で勉強があったりとある程度の強制力があるからいいけれど、問題は大人になってから。

大人になってから「ちゃんとやる」のは思いのほか難しく、どうもサボりがちになる。

言われたことしかやらないのもサボりかもしれないし、仕事でなくとも自分が何をやって生きていきたいかという信念というか目的意識みたいなものがなく、日々、な〜んとなく過ごしてしまうのもサボりのひとつとも言える。

無目的に日々を過ごすのもちょっとした生き方かもしれないとはいえ、そういう仙人みたいな達観があればよくとも、多くはそうではないのではないか。

大人になると親や学校など導いてくれるものがなくなって、自律的に生きなければならないからむしろそれを放棄してしまいやすい。

「ちゃんとやる」には「何をちゃんとやるか」が前提なのであって、その目的がないと「やる」以前になる。

精神の充実は「やる」ことがあって、その達成の度に得られたりするから、いくら忙しく、いくら過労死しそうになっていても自分が望む「やる」でなければただ無駄に疲れてしまう。

しかし、「やりたいことが見つからない」という悩みを持つ人は多く、きっとそれはやりたいことを生み出せる素材が自分に培われていないのではないだろうか。

絵が好きという素材があるだけで、絵を描いてみようだとか、絵を販売する仕事をしようだとか、絵画の歴史をレクチャーしてみようかなど、いろいろとアイデアは湧いてくる。

それが素養というか教養というかよくわからないけど、そういった素材を小さな頃から培っておくのは大事なことかもしれない。

だから、

「結局はちゃんとやらないとできない」

は単なる原理であって、それよりも先天的な素材となるものが自分にないと、

「ちゃんとやろうと思うことがない」

という寂しい人間になって、おかしな自分探しをしてしまう。

自分というのは探すものではなく、湧いてくるものだ。

生きてるだけで自分らしさがある。

そういうものではないかと思う。

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