結月です。
土日。学童保育休み。
であるからして、6歳の小学1年生の愛娘と終日いるわけだが、これだけ暑いと行動が制限されてしまい、さあ、今日はどこに行く?と何度も問いかけるも答えが出ない。
那須の千本松牧場にヤギに餌をやりに行くのが定番だけれど、この暑さじゃ、駐車場からヤギのところまで歩くだけでフラつきそうだし、ヤギだって小屋に入って出てこないのではないか。なので千本松牧場は候補から外れ、屋内でどこかないものかと考える。
家の中にずっといるのもやることがなさすぎて、
「あーもうやってられん!」
と、爆発しそうになる。
インドア&引きこもりな性格のくせに誰かといるとなるとじっとしていられない。自分だけならいくらでもインドアで過ごせるのだけれど。
しかも相手が6歳だからそこまで程度を落とさねばならない。昨晩は紙粘土に付き合わされた。
と、仕方がないので宇都宮の駿河屋に行くことにする。ものづくりが好きな6歳児はロボットを作りたいと言い出し、
「ガンプラ?」
と、わたしですら作ったことがないものを思い立つ。しかし、6歳にガンプラは難しいのではないか? でもやることもないし、見るだけ見てみるか。写真を見せると作りたいと言う。
宇都宮のオリオン通りは毎週来ている。いつものコインパーキングに止めようと思ったら、
「そうだった。今日は宮まつりだった」
と、駐車場は空いていないかと慌てたが、時間が昼過ぎであり、祭りもこれからという段階で余裕だった。
宮まつりはコロナでずっと中止になっていて、4年ぶりの開催だという。
わたしはこちらのネイティヴでないからとりわけお祭りには愛着もないのだけれど、日常の鬱憤をはらすのが祭りの起源であるから、こうしたイベントはあるべきなのである。
いつもは侘びれきったオリオン通りも屋台が立ち並び、居酒屋は軒先で生ビールやハイボールを売る。
愛娘が3歳のときによく読んでやった絵本に「綿菓子」があり、それを食べてみたいと言って初めて食べたのは確かコロナ中の初詣だった。数軒しか出ていない屋台で綿菓子があり、アンパンマンの袋に入った綿菓子を初めて食べて、それは嬉しそうだった。
綿菓子はそれ以来で、久しぶりに食べたいという。じゃあ、駿河屋に行ってから買おう。
ガンプラはさすがにパーツ数が多く、対象年齢は最低でも8歳以上とある。これは無理だということで、6歳以上と書かれたポケモンのプラモデルを見つけると、それがいいと言う。
名前は知らないポケモンをふたつ買った。まあ、暇つぶしにはよかろう。
その帰りにチョコバナナも食べたいというので買って路上で食べる。わたしは食べない。
わたしはチョコバナナなんてものは子供の頃から食べたいと思ったことがない。しかし、6歳児はあれがいいらしい。
オリオン通りには軒先にテーブルを出す新橋っぽい居酒屋がいくつかある。そこで焼き鳥や生ビールを飲むと美味しいだろうなと思いつつ、いつも車だから食べたことがない。
ああいうスタイルは上野にもあるし、パリのキャフェだってそうである。中国にもあって、杭州では中国ビールを飲みつつ、小籠包を食べたことを思い出した。
ああした店で働く女は「いかにも」という感じであるが、サラシを胸に巻いて肌を露出した女の肩には青大将かと思われる蛇の刺青があって、それはカッコ良かった。
普段は隠しているものを祭りの時だけ大胆に見せるのは魅力的である。時代劇かヤクザ映画さながらのサラシ姿なんて本物はそう見られるものじゃない。
もしあの女がいつもあの姿で接客していたら価値がない。秘すれば花。脱がすと刺青は美学である。
他の店では黒い浴衣に半幅帯の女が衿元を肌けさせながら、だるそうに内輪で仰ぎながら焼き鳥を売っていた。それを見て、わたしは「日本」を感じたのである。こんな女は日本しかいない。ヤクザな風格。まるで鈴木清順の映画じゃないか。
しかし、ネイティヴでもないからこの土地に郷土愛もなく、しかも暑い。思えば祭りは賑やかなだけで何か具体的な目的はない。ぶらぶらして屋台で好きなもの買って友達と歩くみたいなものか。
子供の頃はお祭りが楽しみで楽しみで仕方がなかったが、大人になった今、特に公演のことしか考えていないわたしはそれ以外のものには夢中になれない。何の興味も持てないのである。
強いていえば、結美堂山ガール部で行く山登りが楽しみなくらいで、それは山登りが自分にとって容易でない過酷さがあるからだろう。対して祭りはそんな過酷さがなく、ただ眺めるだけだから負荷がなくて楽しめない。
でも、普段はサラリーマンをしていたり、特異なことを仕事にしていない生活だと日常の中での平凡さが蓄積されるから祭りは楽しいものなのである。
だから6歳児にとってはチョコバナナはときめくものであり、綿菓子もそうである。
綿菓子の屋台の前でどの袋にするか訊く。そこには様々なアニメキャラがプリントされている。
小さな声で、
「あれがいい」
と、少し恥ずかしげに指差したのはサンリオのキャラだろうか、耳の長い白いウサギのようなもので、よく見るが名前は知らない。
それを選ぶのを見て、あまりも「らしく」て可愛いなと思った。この子にとってはそれがときめくものなのである。
大きくなるとそういう可愛さはなくなるもので、選ぶものも変わってくる。こんな可愛さもせいぜいあと1年か長くて2年か。
しかしながら、こうした祭りの屋台もあと10年もすればすっかりなくなってしまうのだろう。
こんな屋台をやるのは年寄りばかりで、割に合う仕事であるはずがない。
いや、すでに屋台は少なくなっている。わたしが子供の頃はもっと盛大だった。
うちの愛娘がギリギリそうした風景を見られたということか。
猛暑であるけれど、じっと家にいるより外に出たほうが子供の教育や経験にはいい。
それを狙っているわけではないが、東京からこちらに来てからは毎週、愛娘と出かけている。それはわたしが家の中に終日いることが耐えられないからだが、東京と違ってクルマ移動ができる利点のせいもある。もし東京で電車移動であれば、出歩くのも億劫になってしまう。
さて、ポケモンのプラモデルはわたしが夕方、寝ている間に愛娘は完成させていた。目覚めるとテーブルの上に可愛らしい2体のポケモンがいた。まるで魔法で生まれたかのようである。
簡単にできたとのこと。これならガンプラもできたかと思う。
ところでプラモデルは立体感覚を身につけるにはとてもいい。いずれ中学生くらいになって数学で図形問題をする頃にその成果が出るだろう。紙粘土での制作はまだ2次元に近いものだったから、3次元の感覚はまだ未発達なのである。
ちなみに超弦理論で提唱されるのは11次元。まだまだ先は長い。