結月です。
哲学史としては実存主義は構造主義によって否定されて、実存主義は構造主義に対しては反論できないのであるが、では人間にとって構造主義的事実だけで生きていけるかというとちょっと別問題になる。
なぜなら構造主義的集団が社会を構成しているとしてもその構成要素は「個人」であるからで、人間は個人として生きていかねばならないからである。すると「考えるゆえに我あり」の自己存在を見つめることになり、哲学史は逆行する。
構造主義は社会にも浸透していて、それはその提唱が何十年も前のものであってもネット社会になったことで他国の文化的様式や政治環境がわかるようになり、自分たちとは異なるルールを見やすくなったせいであろう。
しかしながら、ネットによってグローバルにつながるようになり、その社会の差異を互いに受け入れないといけなくなってきた。
社会の根底にある構造を理解するのはいいが、結局のところどんな個人も主体的に行動しなければならない。どんなに他人任せにしようとも「考えるゆえに我あり」的な自分からは逃れられないし、主体的な決断をせず、空気に任せる生き方をしていても空気に任せるという判断をしているのは他ならぬ自分であるからである。
もともと個としての決定力が乏しい日本であるが、空気感に委ねる、さらには全員一致型の調整の傾向はますます強くなっている。それはパワハラがすぐに問題になることで明かされていて、それだけ強烈な個は発揮しにくいわけである。
であるからして、ほどほどのところでまあまあ全員が一致する落とし所を見つけるということになり、調和はしているように見えても力強さはなくなる。
それが日本社会のストラクチャーなのであるが、個を発揮できない、個を発揮しにくい、そんな同調圧力がさらに個の自由を奪い、炎上を恐れるがために個を消し去ることになり、残るのはストラクチャーだけになる。
構造主義は社会の「状態」を示したわけであるが、生き方の提案には乏しい。同調圧力によって個の自由が結果的に奪われること、その自由を求めることは実存主義である。
つまり、構造主義は実存主義を破壊したが、社会の最小単位である個としての人間の具体的な生き方を提案するものではない。他ならぬ自分という実存からは逃れられない。逃れられない実存が集まって社会を構成し、そこにストラクチャーが生まれる。
個を否定する、もしくは個を発揮させないストラクチャーの中で個は鬱屈する。それが個が抱える深刻な悩みであり、ときとして通り魔やテロになってそれは暴発する。
構造主義以前の実存主義時代にはあまりにも実存が傲慢な態度を取っていて、それは主に西洋至上主義だったわけだが、構造主義によってそうした傲慢はなくなったのはいい。しかし、社会のストラクチャーが見えてしまったことで個は絶望する。そんなストラクチャーに立ち向かっても無駄だという絶望。
それは官僚組織でもあるし、民主主義によって選ばれる政治家が集まる意思決定でもあるし、さらに小さく見れば会社独自のストラクチャーですら一社員は改革することはできない。それどころか自分の家族という数人レベルでさえオリジナルのストラクチャーがあり、家族の考え方すら変えられない。
そんなストラクチャーの中に組み込まれ、反抗しようにも無理ゲーすぎて絶望する。そんな絶望をどう対処すればいいか? おそらくは実存主義が最もいいのであろう。
しかし、構造主義後の実存主義はストラクチャーを捉えた上でのものという点で20世紀とは異なる。
おそらくは今後、再び目覚めた実存が構造主義によって明らかになったストラクチャーを破壊するのではなく、そこから離れていく現象が起こる。
それゆえに旧態依然としたストラクチャーを持つ組織ほど形骸化が進み、自然と解体されるに違いない。