結月でございます。
うぉ… すごい高熱… うなされる関節痛… 震えが止まらぬ悪寒…
ああ、苦しい、苦しい、こんなことになろうとは…
こ、これが噂に聞くワクチンの副反応ってやつか… 熱が引かない、どうすればいい…
なんていうのは、
「ウッソぴょ〜ん!」
というわけで、昨日ルンルン気分(死語)で接種したモデルナのブースター、腕がちょっと腫れて寝返りを打つと痛いかな、だとか、やや体が火照ってる?という程度で噂に聞く副反応はなかったわたし。
まあ、こればかりは体質との相性もあるし、熱が出たとしてもそれは悪質なウイルスによる病気でないのだから我慢しておけばよろしい。
これも気持ちの持ちようで、だってワクチンを打てばコロナの心配はほとんどなくなると思えば、
「うれしくて、バラ色」(by資生堂)
ポジティヴに捉えているものは悪いようには作用しないものなのである。だから、もし副反応があったとしても、
「キタキタキタキター!」
と、歓迎するべきであり、そういう気持ちでいるとたとえ高熱が出ても精神が病んだりしない。
さて、数年前くらいからだろうか、わたしは過去に取り込んだ知識が猛烈なスピードで忘却している。
具体的に言えば、音楽の作曲家の名前、巨匠の演奏者たちの名前、曲名と番号、映画のタイトル、監督や俳優、女優の名前などなどであり、かつては中毒というくらいに接していたものに関する知識がどんどん思い出せないものになっている。
しかし、音楽であればメロディ、映画であればシーンはしっかりと憶えていて、旋律は口ずさめるし、映画のシーンだって説明できる。
ところが旋律を聞いても曲名が出てこない。映画のタイトルが出てこない。その監督の名前が出てこない。
昔は雑談をしていればそうした名詞がポンポンとポン菓子のようにトークで出ていたのに、今は、
「ええと… 何だったっけ、あれ… あー思い出せない。何だったかな…」
なんて言っていて、5分くらいしてから、
「あっ!思い出した!」
と叫ぶ。
しかし、思い出せればいいほうで、大抵は思い出せない。
実はそれくらい音楽を聴かなくなったし、それくらい映画を観なくなった。数年前までは絶えず音楽はBGMで鳴らし、映画は毎日、好きな映画を繰り返しで観ていた。
でも、音楽も映画も興味の対象ではなくなり、
「もうええわ…」
と、新規な好奇心が生まれない。
それはきっとそこは卒業ということで、感動はなくなった。音楽に関して言えば、音楽は聴くものではなく、プロデュースするものという感じになっていて、他人が作った音楽には興味がなく、自分がどういう音楽的場を作れるかのほうに関心がある。
その場を作るために過去の経験や知識を使っているわけで、それらは咀嚼され、消化され、形も輪郭も残らず吸収されたのである。
だから、形として見える知識はわたしの中からはなくなっていき、エキスと化したものが養分となってコンサートを開催したりすることに役立っている。
ついでに言えば、音楽や映画だけでなく、読んだ本についても忘却進行中。
と同時に、毎日5歳になった愛娘と過ごしていて、勉強を教えたり、レゴブロックに付き合ったりしていると、幼女の脳の発達のスピードにビビらされてしまう。柔軟な脳みそというのはかくも吸収できるものなのか。
わたしが忘却に進み、愛娘は獲得に進んでいる。
そんな姿を見て、忘れることはいいことだけれど、獲得に頭を使わないと、
「アホになるデ」
と思い、
「よっしゃ!フランス語でも勉強したろか!」
と、思い立ったのである。
わたしのフランス語なんて、20年以上は放置された錆だらけの車みたいなもので、タイヤはパンクして潰れ、ガラスは割れ、泥に塗れて無残で、エンジンがかかるわけがない。
しかし、5歳児は買ったばかりのPCのようにどんどんアプリをインストールする新鮮さに輝いている。
それに比して、自分のポンコツぶりが情けなくなってきて、
「円熟っちゅうもんは、若さとは違う深さがあるんやデ」
なんて言い訳がましく言ってみるも、フランス語に関しては円熟ではなく、ただ忘れているだけじゃないか。
と、5歳児相手に偉そうに勉強を教えているくせに自分は錆だらけであるのは良くない。5歳児が勉強するなら、アタシもやろうやないか。
学ぶ内容は違うが、共に1から学ぼうやないか。
そう言えば、わたしが久しぶりに本気と書いてマジと読むほど勉強したのは去年、旅行管理業務取扱者という国家試験を取得するために4ヶ月間、猛勉強して以来である。
やはり勉強すると頭は冴えるもので、正直心地がいい。
フランス語が必要なわけでないが、やっぱりフランスが好きだし、愛娘がもう少し大きくなればパリにも一緒に行きたい。それに勉強を教えていると偉そうになるだけで、自分が学ぶ姿勢があることを5歳児に見せることこそが大事なのである。
バイオリンだって親が猛烈に練習していると、5歳児は真似して練習するようになる。だからわたしは今更ながらにバイオリンを練習してみたりする。
とまあ、そんな教育方針もあれど、本当のところは自分がポンコツ状態であるのが嫌だからで、久しぶりにフランス語をやることにする。それに外国語は勉強にゴールがないからずっと続けられる。
そうこうしてフランス語をやっておけば、それがきっかけになってフランスで何かができるかもしれないし、努力は将来「何か」に化ける。
と、フランス語モードな気分になると、またしても、
「うれしくて、バラ色」(by資生堂)
となって、早速、フランス語の本をAmazonで発注してしまった。
家にもかつて揃えたフランス語の本はたくさんがるが、それらは過去の自分のものだから鮮度がない。やはり新しい試みは新品であるべきだ。
それに今は昔と違って、ネットでフランスのサイトにいくらでもアクセスできるし、フランス語の動画も見られるし、オンラインでフランス人と話すこともできる。
昔はネットがなくて、ちょっとしたフランスの記事を読むのも無理で、古臭い文献しか手に入らなかった。
ともかく、愛娘が小学生くらいになったらパリに連れて行ってやる。ルーブルに行こう、オルセーに行こう、コンサートを観に行こう。
そんなときにフランス語が錆だらけでは情けない。そんなポンコツが勉強しろと言っても従うわけがない。バイオリンに関してはおそらくあと5年で抜かれる。
偉そうにするというアドバンテージを持ち続けるには、自分が努力していなければならない。人間は努力していない人の話は聞かないものだ。
と、そんな政治的戦略がありつつも、結局のところ、
「おもしろいから」
やるのである。
フランス語をやるほうがおもしろい。それをきっかけにもっとおもしろいことに出会える確率が高くなる。
そして、勉強し続けていると、ずっと若くいられる。だから、仕事だって新鮮なものに挑戦したほうがいい。毎日同じ業務をこなすだけなんてやらないほうがいい。役所の窓口に行くと職員が老けて見えるのはそのせいだ。
そして、5歳児には負けられない反骨精神。幼児の発達は驚異的なスピードなのである。
わたしは過去に蓄積した知識を忘れて、新しいものに入れ替えていく。