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ふるさとは遠きにありて思ふもの

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結月です。

今日はレッスンで東京。とは言っても、駐車場に車をとめ、そこから徒歩30秒のスタジオに入るから、東京の街を歩くことはほどんどない。レッスンが終わるとまた徒歩30秒で車に乗って帰ってしまう。

とりわけ東京でもやることがないし、ちょっと飲みに行きたい場所はあれどそうなると電車でなければならず、それが億劫だからなかなか飲みに行けない。飲みに行ったとしても、電車で1時間半かけて栃木に戻るのがこれまた億劫で、調子に乗って飲み過ぎたら帰るのが大変である。

だから、東京で飲むのであればホテルを取っておくのがいいわけだが、そうすると翌日愛娘の保育園に連れて行けなくもなり、

「はぁ… どうにもならん」

と、諦める。

でも、お酒を飲むのが面倒になり、なぜなら肉体的にきつい。飲んでいる最中は楽しいのだけれど後がどうもね。

なんて、お酒が弱くなったわけでないのだけれど、メンタルがそれをあまり求めなくなって「きつい」と認知するようになった。

やはり5歳の女の子がいると、お酒飲んで無頼というわけにはいかないのである。

と、東京で遊ぶこともなく、というか興味があるものがあるわけもなく、栃木に戻ってしまうのであるが、パリに行きたい、と飛躍する。

フランスはコロナ規制も撤廃されると、わたしはコロナではなくパリ熱に冒される。

もうかなり長い間パリには行っていない。長年パリの空気を吸っていなくて、よく自分が平常心でいられるものだ。

パリに行けばわたしは猛烈に元気な人になって、日本に帰ってきても数ヶ月はそのモードになる。どんな栄養剤よりもパリに行くことがわたしを元気にする。

しかしこれまた5歳児問題があり、たった1週間だって愛娘を置いていくことができないわけで、

"ふるさとは遠きにありて思ふもの

そして悲しくうたふもの

よしや

うらぶれて異土の乞食となるとても

帰るところにあるまじや”

と、パリがわたしにとってはふるさとであり、異土が栃木というところか。でも栃木で乞食はしてないけれど。

とまあ、やりたいことをやって生きている人間のはずのわたしも何かと不自由があって、やりたいこともやれない。

パリに行きたければ5歳児も連れていくとなるが、そうなるとサンミシェルの行きつけのキャフェでルーブル宮殿を眺めつつ、黄昏の陽の中でワインを飲むアダルトな時間が過ごせない。パリでは古い映画もいっぱい見たいし、市場に出かけてプレ・ロッティ(ローストチキン)を丸ごと買って、ワイン専門店でボルドーの辛口を手に入れ、朝からホテルで飲んだくれたい。

どう考えても5歳児同伴ではできないメニューであり、

「ふるさとは遠きにありて思ふもの」

さて、自由とは何か?と考えてみると、まずは精神的な自由。つまりそれは好きなことをやりたい放題という中学生的意味ではなく、個人として独立した存在を確立できていること。まずそれが自由の大前提である。

他人目線で生きるとその瞬間に自由はなくなる。だから他人ではなく、自分目線で生きなければならない。

たとえ最悪の事態であっても自分で決断して生きる。その覚悟がないと人間は自由を獲得できない。

だからわたしに5歳児がいるからパリへは行けないという判断はわたしの自由がもたらしているもので、自由な立場でありながらやりたいことができない状態を受け入れる自由を行使している。

なぜなら、行こうと思えばパリなんか簡単に行けるわけで、5歳児なんかどこかに預けて、猫は人に頼んで、心配を心から排除して欲望を貫き通せばパリには行ける。

でも、そんな身勝手な人間になるのも嫌だという規範が自分にあって、わたしの自由でもってパリには行かないわけである。

自由の行使とは責任を伴うものであって、わたしが今、やりたいことに邁進しているその仕事も自由であるからこそ行えるものであるが、そこには大きな責任がある。

逆に言えば、責任を伴わない自由は中身が軽すぎておもしろくない。だから、責任を放棄してパリに行ったところできっと大しておもしろくないだろう。

きっとお酒がつまんなくなったのも、ただ飲むだけの行為は責任が伴わない遊びであるからで、要するにそういうことに飽きた。

5歳の愛娘をいると楽しいのは、相手が小さすぎてこちらに監督の責任が大きいからで、人を育てるというのはその将来への大きな責務なのである。

責任が伴わないのはただの遊び。

そういう遊びはね、もういらない。

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